『浄土くじけてもつまづいても帰れる世界』

「浄土」

とは、

「清浄の土」

という意味です。

この清浄ということには、どのような意味があるのかといいますと、清とはそこにいるすべてのものが満足しているあり方、浄というのは心が開かれ明るさを持つあり方という意味があります。

また、清に対するものは濁で、これは

「にごっている」

ということです。

仏教では、この世は濁世であるといい、この濁という言葉で私たちのあり方を語っています。

「濁」

つまりにごっているということは、そこにあるものすべてがぼんやりとしているということです。

例えば、水がにごっているということは、水の中にあるもの全てがぼんやりとして見えないということで、それはまた、曖昧ということでもあります。

そうすると、私たちの世の中は濁世ということですから、みんな曖昧にぼんやりとした中に生きているということになります。

では、いったい何がぼんやりしているのかというと、根本的には、自分にとって、自分自身が曖昧だということです。

つまり、濁世の濁ということの根本には、世の中がにごっているという前に、自分にとって自身が曖昧だということがあるというわけです。

そのために、どうなれば自分が本当に満足できるのか。

あるいは、自分が本当に求めているものが何なのかが分からないのです。

そして、その分からないままで、いろいろなことを周りに要求をしているので、あれにも満足しこれにも満足したけれども、結局のところ、一生を振り返ってみると、自分の人生とはいったい何だったのか分からない、というようなことになってしまうのです。

このように、濁とは自分にとって自身が曖昧なままに生きているということですから、それは、本来の自分というものが分からないままに生きているというあり方だといえます。

それに対して、清とは自分がはっきりしたということです。

ただし、それは何かがどうなったから満足することができたというのではなく、自分がここにこうして在ることを本当に受け止めることができた。

私の生きている喜びがそこに見いだせた。

自分自身に、本当に安んじて生きることが出来るようになったということです。

また、浄ということは、穢ということに応えています。

浄土に対して、穢土というのですが、穢という言葉は、仏教では執着されてあるあり方をさしています。

穢というのはけがれているということですが、それは何に対してけがれているのかというと、執着にけがれているというのです。

人間の生き方にしても、社会のあり方にしてみても、私たちはすべて自分の思い、自分中心の見方でとらえています。

そして、そのような自分の思いを後生大事にかかえて生きています。

それは、つまるところ、それぞれ自分の思いに閉じこもって生きているということです。

考えてみますと、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友をもっている間は、絶望することはありません。

けれども、誰に言ってもどうにもなるものかという、自分の思いに閉じこもってしまった時に、人は絶望するのです。

したがって、たとえそれがどれほど苦しい事実であっても、決して事実によって絶望することはないのです。

孤独感に苛まれ、心を閉じ、自分だけの思いに閉じこもったとき、人は救いのない、抜け場のない、そういうあり方の中に落ち込んでいくのです。

これに対して、浄土というのは、心が開かれ明るさを持つ世界です。

それは、苦楽ともにということから言いますと、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界ということです。

私たちが浄土を見いだし、常に浄土を心の依りどころとして生きていくということは、苦しみにおいて常に自らを明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と出会う、そういう生き方が私たちの上に開かれてくるということです。

このような意味で、少なくとも、私たちにとって二つのことが生き方の中に開かれなければ、本当に自らの生涯というものを十分に生ききることが出来ないのではないでしょうか。

一には、自分の事実をどこまでも引き受けていける、そういう場所を持つということ。

同時に、すべての人々と喜びをともに分かち合っていける心が開かれてくるということです。

人生の途上で、たとえつまづいても、くじけても、私が帰っていける世界を見いだすことが出来れば、私たちはその喜びを胸に一度限りのこの人生を尽くしていくことが出来るのだと思います。