私がご本山で一番好きな彫刻に、十組の牡丹の花があります。
これは、僧侶がお勤めをする内陣と、一般の方がお参りされる下陣のちょうど境目の上の方にあります。
証明があまり当たらないので見えにくいかと思いますが、この牡丹がそれぞれに違うんです。
どう違うかといいますと、北から正面へ向かうにつれて、牡丹の花が咲いていくんです。
そして正面から南に向かうにつれてしぼんでいく。
こういう何とも心憎い演出がされていました。
こういった遊び心のある彫刻は本願寺では珍しく、これを見たときは
「この仕事をして良かったなぁ」
と、幸福を感じた瞬間でした。
では、今の御影堂が出来たその時代、本願寺はどのように発展していったのでしょうか。
戦国時代、本願寺が現在の大阪城付近にあるころ、織田信長との争いで本願寺の殆どが焼失して仕舞います。
それ以降、本願寺は現在の和歌山、大阪の貝塚、天満と移転していきます。
その翌年には、現在の地である京都・七条堀川の地を豊臣秀吉が与え、本願寺は京都に帰ります。
阿弥陀堂は新築され、御影堂は天満から移築されるのですが、慶長元年(1596)年に大地震によってそのほとんどが倒壊します。
しかし、すぐに再興し、2年後には御影堂が上棟します。
それからも対面所を作るなどして境内の整備が進んでいきますが、元和3(1617)年、今度は火災によって唐門と鐘楼を除いたほとんどの建物を焼失しています。
すぐに仮堂を再建しますが、このときに徳力善宗という人が襖絵を描いています。
そして、寛永元(1624)年に顕如上人33回忌に合わせて対面所を再建します。
上段の間に、金を使った障壁を描いたとの内容が古文書に残っています。
これは、狩野派の絵師・渡辺了慶が描いたのではないか、と言われています。
本願寺が京都に帰ってきたころは、南蛮寺というキリスト教の教会が各地にでき、京都にも勢力を伸ばしていました。
全国にキリスト教徒が60万人いたとも言われています。
そして、この時代の文様を見ていきますと、南蛮物が非常に多いんです。
これは私見ですが、キリスト教勢力の拡大を恐れた秀吉は、1589年に南蛮寺の焼き討ちをし、その2年後、本願寺に七条堀川の地を与えています。
もしかしたら秀吉は、拡大し続けるキリスト教勢力に対抗できるのは、戦国大名と肩を並べるほどの勢力を誇った本願寺しかないと思ったのかもしれませんね。
いずれにしても、様々な苦難を乗り越えて、本願寺は京都の地へと帰る願いを果たしたということです。