親鸞聖人は、お手紙の中で
「世の中安穏なれ仏法ひろまれ」
と述べておられます。
親鸞聖人がおっしゃる
「安穏なる世の中」
とは、いったいどのような世の中なのでしょうか。
おそらく、誰もがこの言葉から思い浮かべるのは、この地球上から戦火が途絶え、人種、民族、宗教、男女などの様々な違いを超えて、全ての人々が等しく仲良く暮らせるような争いのない穏やかな世の中になることであるように思われます。
そうすると、私たちの住むこの日本は、1945年に第二次世界対戦が終結して以来70年近くの間、少なくとも外国と正面だって交戦することはなく、人々は経済を発展・成長させることにより生活を豊かにし、
「平和」
な日々を謳歌してきました。
また、社会福祉や医療の充実、男女共同参画社会への取り組み、差別解消に向けての運動などにより、誰もが等しく仲良く暮らせるような、争いのない穏やかな世の中を実現させようと努力しているようにも窺えます。
そのような意味では、日々刻々と
「安穏なる世の中」
が築かれつつあるとも言えます。
ところが、果たして私達は現実の社会において、そのことを実感することが出来ているでしょうか。
実感できないばかりか、むしろこれまでには考えられなかったような凶悪な事件が次々と起こり、親が自分の子どもを虐待したり、殺したりするような痛ましい事件さえ頻発しているのが現状です。
では、私達はいったいどのようなことに努めれば
「安穏なる世界」
が訪れるのでしょうか。
仏教が説く
「因果の道理」
とは、因が真実であれば果もまた真実であり、因が不実であれば果もまた不実であるという教えです。
そうすると、仏教の因果の道理から見れば、私たちのこの社会における行為は、全て不実ということになります。
なぜなら、私達は死ぬ瞬間まで自らの力によっては迷いを断ち切れず、何一つ真実なることを成し得ない
「凡夫」
だからです。
そのため、私たち人間生活のすべては不実の中にあると言えます。
そして、行為の一切が不実なのですから、私たちの生活に見られる果は、すべて不実ということになります。
私たちが日頃考えている因果の道理は
「努力すれば幸福になる」
ということですが、その求めている幸福そのものも、迷いの幸福だと言えます。
もちろん、不幸も迷いの不幸です。
そのため、どのように懸命に努力しても、それは迷いの努力を重ねているだけに過ぎないことになります。
そうすると、私たちがどれほど
「安穏なる世の中」
を築こうとしても、それは迷いの中で幻想を追い求めているだけに過ぎないということになります。
だからこそ、親鸞聖人はこの言葉の後に
「仏法広まれ」
という言葉を続けておられるのだと言えます。
この場合、親鸞聖人がおっしゃる仏法とは
「念仏の教え」
ということになります。
それは、この世の中における真実は
「念仏を称える(因)」
「必ず仏になる(果)」
という因果の道理をはっきりと頷いておられたということです。
このような意味で、親鸞聖人が言われる
「安穏なる世の中」
とは、決して何の問題もなく、また私を苦しめる何ものも存在しない、あるいは私がのんびりと暮らせるといった、単に穏やかな世界を意味しているのではないように窺えます。
私たちは、たとえ状況としては、どれほど辛くても苦しくても、私が私をあるがままに受け止められると同時に、私も周りの人をそのままに受け止めることが出来る。
その二つが実現すれば、この世の中を安心して生きていくことが出来るのではないでしょうか。
例えば、嬉しいことがあってもそれを伝え聞いてくれる誰かがいなければ、少しも嬉しくはありませんし、反対にどれほど悲しくても寂しくても話に耳を傾けてくれたり、頷いてくれる仲間がいれば、また何度でも立ち上がって行くことが出来るものです。
そうすると、安穏なる世の中は、どこか遠いところにあるのではなく、共に生きる仲間を見出すところに実現していくのではないでしょうか。
おそらく、その仲間がやがて集う世界を親鸞聖人は
「浄土」
に見出しておられたのだと思われます。