日差しの暖かな日が多くなりました。
土筆(つくし)やふきのとうが、地面から顔を出し、木の枝には蕾がふくらみ、花が咲き始めています。
季節ごとに景色が変化していく中で、桜島の活動は四季を問わず活発です。
今年は、大正3年の桜島大噴火(死者58、傷者112、焼失家屋2,268)から99年目を迎えました。
当時、まだ寒い1月であるにも関わらず、土の中から冬眠中であるはずのカエルやヘビ、トカゲなどが起き出し、温泉や海水温も上昇するという異変が起きていたそうです。
また、地震や地鳴りも頻発する前兆現象が続く中で、住民は不安を抱えていましたが、鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)の見解は、
「桜島に異変はない。
避難するには及ばない」
ということだったそうです。
しかし、住民の不安が的中し、1月12日桜島は大爆発を起こします。
その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され、大量の溶岩が流出しました。
溶岩流は、桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになりました。
また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測されました。
なお、この火山活動がほほ終息したのは、大正5年でした。
この時、住民の中には測候所の見解を信用せず、事前に避難をする人がいる一方、見解を信頼して避難の遅れた人たちもいました。
そのため、混乱によって海岸から転落する人や、泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする人が相次ぎました。
この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校に残る桜島爆発記念碑には
「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」
と書かれてあり、これは
「科学不信の碑」と呼ばれています。
この時の大噴火により、桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅しました。
耕作が困難となった農地も多く、そのため、噴火以前は2万人以上いた島民の約3分の2が種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地の島外へ移住しました。
自然の力は、人間の予測を超えた動きをします。
このように、活火山の周辺にたくさんの人が住んでいるということは、世界でも珍しいことだそうです。
火山と共に生きるという環境の中にあって、私たちはともすればそのことへの意識が薄くなってしまう面があります。
年間爆発回数の記録を更新するなど、近年桜島は火山活動が活発化しています。
来年の
「大正大噴火百年」を前に、伝達される情報に頼りきるのではなく、また何よりも
「慣れ」てしまって環境の変化を見落とすことのないようにしたいと思います。
そして、日頃から防災の意識を高め、いろいろなことに備えておくようにしたいです。