親鸞・紅玉篇 3月(4) 炎の辻

辻々で小戦(こぜりあい)が始まった。

不意に逆襲(さかよ)せをくった院の兵はもろかった。

一群れ、一団ずつ、武器を奪りあげられて、降人(こうにん)となる組があるし、反抗して、大薙刀で、首を打ち落とされている者や、組み敷かれて、

「斬れ、おれの首は宙をとんで、西八条の入道に、噛みついてやるぞっ」

と、呪いを、絶叫しながら、朱(あけ)になってすぐ路傍の死骸になる者もある。

その中を、首魁(しゅかい)の浄憲法師が、素(す)裸足(はだし)のまま、院の打ちから縄がらめになって突き出されてきた。

近江中条蓮浄、山城守基兼、その他の文官や武官も、ぞくぞくと衣冠や太刀を剥がれて、西八条へ召し捕られてゆくし、また、鹿ヶ谷の俊寛も、手あらい雑兵に縛(いま)しめられて、犬か牛のように、鞭で打たれながら、引っ立てられてきた。

清盛が、その人々を、どんな憎悪と怒りの眼をもって見たかは、想像に難くない。

浄憲法師に向っては、

「この畜類めらが首、滅多には斬るな。手足を、枷(かせ)にかませ、糾問に糾問した上で、河原に引き出して、頭(かしら)を刎(は)ねい」

と、罵った。

浄憲は、自暴自棄になって、白州から口を裂いて吠えた。

「やよ清盛、そもそもご辺は、故刑部忠盛の嫡子であったが、十四、五の頃まで出仕にもならず、京(きょう)童(わらんべ)は、高平(たかへい)太(た)の、眇(すがめ)のといっておった。

さるを保延のころ、海賊二十人ほど搦め捕った恩賞に、四位の左(さ)兵衛(ひょうえの)介(すけ)となったのですら、その当時、人は過分なと沙汰してあったに、その後は、とんとん拍子に、殿上のまじわりもなり、今は太政大臣の高位におわすこと、自身にても、不思議な冥加(みょうが)とは思わぬかっ。

それを、なおこの上にも一門の栄達ばかりを計り、すこしの善政も施さないでは、やがて、この西八条の大棟(おおむね)に怨嗟(えんさ)の炎が燃えつかずにはおるまいぞよ。

……ははは、平家の亡ぶ日が、眼に見えるようだっ。

おぬしの入道首が磧(かわら)の烏に啄(ついば)まれる日が、眼に見ゆるわ!」

清盛しは、あおい眉間をして、

「しゃつ!その口を八裂きにしてくるるぞよっ。侍ども、この人非人めの皮膚(かわ)を剥いで、焼けたる金(かな)鞭(むち)をもって打ちすえろ」

廊から唾をして、奥にかくれた。

空いている物の具部屋の板敷の上には、大納言が泣きぬれて、人心地もなく仆(たお)れていた。

入道は、跫音(あしおと)あらく、そこの障子を開けて、彼へも、いった。

「大納言、大納言。恩を知るをもって、人は人間とこそいえ、恩を知らいでは、畜生にひとしい。

ご辺は、平治のころにも、すでに誅せられる所であったのを、小松内府が、身に代えて、その首をつないでやったのではないか。

さるを、その恩を忘れて、当家を傾けんとは、憎い為打(しうち)。見せしめには、こうして進ぜる。」

大口(おお)袴(ぐち)の方脚をあげて、つよく蹴った。

そして、

「まだ、かようなことでは、腹は癒えぬ。誰ぞある!この恩知らずめを、もっと、もっと、喚(わめ)かせいっ」

具足をつけた兵が、板敷へ踏みこんで、大納言の手足をつかんだ。

大納言成親は、清盛の望みどおりに、ひいっ――と声をあげて、もがき喚いた。