親鸞・紅玉篇 3月(5) 炎の辻

憎む者というと、その髪の毛を引き抜き、肉を裂いても、清盛の怒りは、容易に解けないのであった。

余憤は、院の法皇にすら向けられて、西八条は、夜明けにかけて、いよいよ兵気が旺(さかん)になる。

薔薇園の邸にいる子息の小松重盛は、それを聞くと、悲壮な決意をもって、父の清盛を訪ねた。

そして、面を冒して、重盛は、聖徳太子の古言をひいて、憤怒の父を諫めた。

それは、聖徳太子の憲法十七条のうちにあるおことばだった。

人、みな心あり

心、各々執あり

彼を是し

我れを非し

我れを是し

彼を非す

是非の理、誰か定むべき

相共に賢愚なり

環(たま)のごとく端(はし)なし

たとえ、人怒るとも

わが咎(とが)をこそ怒れよ

清盛はうつ向いて、内府の声を聞いていた。

大納言を殺すことは、思いとまったらしい。

しかし、怒りが解けたのではない。

やがて、囚人車(めしゅうどぐるま)に乗せられて、都から遠国へ差し立てられてゆく流人が毎日あった。

京の辻は、日ごとに、それを見物する者で雑鬧(ざっとう)した。

新大納言は、備前の児島へ。

近江の蓮浄、山城守基兼、式部正綱、等々々、一介の平人(ひらびと)になって、無数の檻車(かんしゃ)が、八方の遠国へ、生ける屍(しかばね)を送って行った。

わけても、極刑にひとしい厳罰をうけたのは、鹿ヶ谷の俊寛であった。

流されて行く先が、鬼界ケ島と聞いただけでも、人々は魂をおののかせた。

六条の範綱は法皇の御行動を、あやうい業火の淵からおすくいした心地がした。

もしあの時、西八条へ一筋の矢でも射(ひ)いてから法皇が、その軍勢のうしろにおいでになると分かったら、清盛の手は、院中にまでのびて、勢い、法皇のおん身にまで、どんな禍(わざわい)を及ぼしたか分からない。

「おそろしい世の中だ」

と、今さらに思うのだった。

つとめて、身を慎しみ、処世の一歩一歩に、細心な自適を心がけるよりほかはない。

「箭四、箭四はいるか」

ふと、思いついて呼ぶと、ほかの召使が、

「箭四郎どのは、今しがた、和子様を背に負って、流人の檻車を、見物に参りました」

やがてその箭四郎が、十八公麿を負って、帰ってくると、範綱は、

「和子に、さようなものを見せてはならぬ」

と、いって叱った。

しかし、十八公麿は見たがるのである。

六条の館は、以前の日野の里とはちがって、都の町中である。

眼をふさぎ、耳をふさいでも、ごうごうと騒がしい世態の物音や、恟々恟々(きょうきょう)と脅える人々のうわさなどが、敏感な童心のかがみに移らないはずはなかった。

母の病気のために、久しく郷里に帰っていた侍従介も、やがて、帰ってきたが、わずかな間に激変した都のさまや、人間の栄枯盛衰らおどろいて、

「こんなふうに、世の中が、三年も経ったら、一体、どう変るのでございましょうな」

しみじみと、無常のつぶやきを洩らしていた。