憎む者というと、その髪の毛を引き抜き、肉を裂いても、清盛の怒りは、容易に解けないのであった。
余憤は、院の法皇にすら向けられて、西八条は、夜明けにかけて、いよいよ兵気が旺(さかん)になる。
薔薇園の邸にいる子息の小松重盛は、それを聞くと、悲壮な決意をもって、父の清盛を訪ねた。
そして、面を冒して、重盛は、聖徳太子の古言をひいて、憤怒の父を諫めた。
それは、聖徳太子の憲法十七条のうちにあるおことばだった。
人、みな心あり
心、各々執あり
彼を是し
我れを非し
我れを是し
彼を非す
是非の理、誰か定むべき
相共に賢愚なり
環(たま)のごとく端(はし)なし
たとえ、人怒るとも
わが咎(とが)をこそ怒れよ
清盛はうつ向いて、内府の声を聞いていた。
大納言を殺すことは、思いとまったらしい。
しかし、怒りが解けたのではない。
やがて、囚人車(めしゅうどぐるま)に乗せられて、都から遠国へ差し立てられてゆく流人が毎日あった。
京の辻は、日ごとに、それを見物する者で雑鬧(ざっとう)した。
新大納言は、備前の児島へ。
近江の蓮浄、山城守基兼、式部正綱、等々々、一介の平人(ひらびと)になって、無数の檻車(かんしゃ)が、八方の遠国へ、生ける屍(しかばね)を送って行った。
わけても、極刑にひとしい厳罰をうけたのは、鹿ヶ谷の俊寛であった。
流されて行く先が、鬼界ケ島と聞いただけでも、人々は魂をおののかせた。
六条の範綱は法皇の御行動を、あやうい業火の淵からおすくいした心地がした。
もしあの時、西八条へ一筋の矢でも射(ひ)いてから法皇が、その軍勢のうしろにおいでになると分かったら、清盛の手は、院中にまでのびて、勢い、法皇のおん身にまで、どんな禍(わざわい)を及ぼしたか分からない。
「おそろしい世の中だ」
と、今さらに思うのだった。
つとめて、身を慎しみ、処世の一歩一歩に、細心な自適を心がけるよりほかはない。
「箭四、箭四はいるか」
ふと、思いついて呼ぶと、ほかの召使が、
「箭四郎どのは、今しがた、和子様を背に負って、流人の檻車を、見物に参りました」
やがてその箭四郎が、十八公麿を負って、帰ってくると、範綱は、
「和子に、さようなものを見せてはならぬ」
と、いって叱った。
しかし、十八公麿は見たがるのである。
六条の館は、以前の日野の里とはちがって、都の町中である。
眼をふさぎ、耳をふさいでも、ごうごうと騒がしい世態の物音や、恟々恟々(きょうきょう)と脅える人々のうわさなどが、敏感な童心のかがみに移らないはずはなかった。
母の病気のために、久しく郷里に帰っていた侍従介も、やがて、帰ってきたが、わずかな間に激変した都のさまや、人間の栄枯盛衰らおどろいて、
「こんなふうに、世の中が、三年も経ったら、一体、どう変るのでございましょうな」
しみじみと、無常のつぶやきを洩らしていた。