壁は、墨汁(すみ)によごれていた。
四側(よかわ)に並んだ机には、約二十人ほどの学童が、強いて姿勢を正して、師の講義を聞いていた。
「孝経」
であった。
日野民部の講義が終わると、
「先生……」
と、次の部屋に待っていた学僕が、側へすすんでいった。
「ただ今、御入門したいと申す児童が、二人の隨身を供に連れて、お玄関に控えておりまするが」
「そうか。通しておくがよい。――しかし何家(どこ)のお子だ」
「まだ伺っておりませぬ」
学僕が去る間に、児童たちは、もう机の上の書物を、あわただしく仕舞って、立ち騒いでいた。
「これっ」
民部は叱って、
「誰が、立てといいましたか、まだ、書物を仕舞ってはなりませぬ。今、先生が、読み解いた一節を、声をそろえて、復習するのじゃ」
すぐ静粛になる。
児童たちは、書(はん)を両手にもって、孝経の一節を、高らかに、読んだ。
「よろしい」
ばたばたと、また騒ぎかける。
「――よろしいが、まだ、学課はおしまいではありませぬぞ。硯(すずり)に、水をおいれなさい、そして、草紙を出す」
命じられるままに、手習(てならい)が始まった。
よしと見て、民部は、ほかの室へ立って行った。
その室には、何もなかった。
儒学者の家らしい唐机が一脚と、書物の箱が、隅にあるだけである。
そこの板縁を後ろにして、一人の少年が、さっきから待たされて控えていた。
民部は、そこへ何気なく入って行ったが、足をふみ入れるとすぐに、はっと思った。
この学舎には、堀河、京極、五条、烏丸などの、権門の子をはじめ、下は六、七歳から十五、六歳の子弟を預かっていて、民部は今日までずいぶん多くの少年を手にかけてきているが、まだこんな感じを初対面の時にうけた例(ため)しはなかった。
【凡(ただ)の子ではない】すぐ、感じたのである。
永年の体験で、教育者として直感したのではあるが、べつに、その少年の容貌(かおだち)とか、身装(みなり)とかに変った点があるわけではない。
少年は、手を膝に重ねて、入ってきた民部を、ちらと見上げている。
そして、すこし後へ退がって両手をつかえた。
良家の子ならば、これくらい作法は、どこの子弟でも仕込まれている。
だのに、民部は、そのあたりまえの動作のうちに、やはり感じるのであった。
【はてな?……何家の子だろうか。これは、鳳凰(ほうおう)の雛(ひな)だ】そう思いながら、
「入門したいというのは、そこもとか」
「はい」
すずやかな返辞である。
「お年は」
「八歳(やつ)になりました」
「おん名は」
「十八公麿(まつまろ)と申します」
「お父君は、武家か」
「いいえ」
「どなたで、何といわるる」
「六条源氏町の藤家範綱の子でございます」
「や、範綱うじの、御猶子(ごゆうし)か。……ウーム、道理で」