小説 親鸞・紅玉篇4月(1)

2013年4月1日

今の父は、後の養父だと人がいう。

どうして自分には真の父がないのか。

寿童丸のことばをそのまま、信じはしないでも、十八公麿は、しきりと、それを考えるようになった。

母に、訊ねると、

「お父君は、和子が四歳の年の春に、お亡くなり遊ばされたのじゃ」

吉光の前は、そう明らかに教えた後で、いいたした。

「けれど、和子は、そのために、この六条の伯父君の手にそだてられ、御猶子となられたのです。

世のことわざにも、生みの親よりは育ての親という、御養父様の恩は大きい。

忘れてはなりませぬぞ」

「はい」

十八公麿は、うなずいたが、すぐ次の問いに、母を驚かせた。

「父君は、戦に出て、死んだのですか」

「いいえ、お病気(いたつき)で」

「でも、源三位頼政の戦に加わって、討死したのじゃという人がありました」

「世間というものは、種々に、人の生活(たつき)を憶測してみるものじゃ。

そんなことはありません。

母も、伯父さまも、介も、その折のご臨終の時には、お枕元に侍(かしず)いていたのじゃもの」

「どうして、世間は、そんなことをいうのでしょう」

「いわれのないことでもない。

――それは、この母の従姉弟に、今は、奥州(みちのく)の藤原秀衡のものとに潜(ひそ)んでいる源九郎義経があり、また、近ごろ、伊豆で旗挙げをしたと沙汰する頼朝がある。

――それで、亡きおもとの父も、必ずや、頼政の軍にでも加担して果てたのであろうと、邪推するのでしょう」

そして、十八公麿の頭をなでた。

「そなたは、大きゅうなっても、頼朝、義経たちのように、血の巷に、刃をとって、功名をしようなどと思うてはなりませぬぞ」

「母さま」

「なんじゃ」

「人が死ぬと、どこへ行くのではございますか」

「さあ?」

吉光の前は、常には、分かりきっているようなことが、子に、そう訊かれると、すぐ答えができなかった。

「行くとて、行く姿はあませぬ。

無にかえるだけです。

ただ、人の心だけが、残ります。

心の業だけが残ります。

ですから、生ける間に、よい事をしたものは、よい名をのこし、悪業をしたものは千載の後までも、悪の名をたましいに持って、死しての後は、それを拭(ふ)き改めることもできません」

死を考えることは、生を考えることである。

十八公麿の眼は、うっすらと、そのころから、実社会の相(すがた)に、みひらいてきた。

路傍に、飢えて、菰(こも)をかぶっている人間のすがたにも、刀創を晃(きら)めかせて、六波羅大路を練り歩く武将にも、新たな、観る眼があいて世の中を考えだした。

そして、こういう人々の種々の仮の相(すがた)が、一様に、死の無に回(かえ)って、そのたましいの名だけが、宇宙にのこる。

無限に死に、無限に生れ、無限のたましいの名だけが、不滅にある。

「ふしぎな?……」

と、彼は、つぶらな眼をじっとこらして、見ても見ても見飽かぬように、深碧(しんぺき)な、そして深く澄んだ、空に見入っていることがあった。

そういう間も、日野民部の学舎に通うことは、日々怠らなかった。