親鸞・紅玉篇 3月(10) 燎原(りょうげん)の火

一敗地にまみれて、壮烈な死をとげた源三位頼政の軍に、民心は同情と、失望をもった。

そして心のうちで、

「どこまで、悪運がつよいのか」

といよいよ、傲(おご)り栄える平家を憎んだ。

石の上の雑草みたいな、うだつの上がらない自分たちの生活に、また糖分、陽(ひ)があたらない諦めを嘆いた。

だが、頼政の死は、犬死でなかった。

彼の悲壮な一戦は、むしろ老後の花だった。

【あの源氏の老(おい)武者ですら、これほどのことを、やったではないか】ということは、諸国に潜伏している源氏の者を、はなはなだしく強く衝(う)った。

彼の挙兵に刺戟された源家の血統は、永い冬眠からさめて起ち上がったように、諸方から、兵をうごかし始めた。

まず、八月七日には、関東の伊豆に、頼朝が義朝滅亡以来、絶えて久しく、この天(あめ)が下に見なかった白旗を半島にひるがえす。

その飛報が、京の六波羅を驚かして、まだ、軍備も整わないうちに、第二報は、彼らの思いもしなかった木曾の検非違使(けびいし)から来て、

「木曾の冠者義仲(かじゃよしなか)、近江以北の諸源氏をかたらって、伊豆の頼朝に応じて候」

とある。

愕然(がくぜん)と、六波羅の人心は、揺れうごいた。

折もわるく、清盛は、このころから、不快で、大殿籠りの陰鬱(いんうつ)な気にみたされている時である。

夜ごとに、悪夢をみるらしく、宿直(とのい)の者に、不気味をおぼえさせた。

大熱を発して、昼も、どうかすると大廂(おおびさし)に、三位頼政の首がぶら下がっているの、屋根のうえを、義朝の軍馬が翔(か)けるの、閻王(えんおう)を呼べの、青鬼、赤鬼どもが、炎の車につて、厩舎(うまや)門の外に来ているのと、変なうわ言ばかりを洩らすのであった。

だが、宗盛をはじめ、平家の親族は、難く、清盛の病気を秘して、

「口外無用」

と、宿直や、典医や、出入りする将へも言いわたしていた。

頼朝の兵は、枯れ野の火のように、武蔵を焼き、常陸へ入る。

義仲は近江路へと、はや、軍馬をすすめていると聞えた。

そうした、眼まぐるしい、一刻の落着きもない都のなかを、毎日、十八公麿は、がたがた車で、日野の学舎へ一日も怠らずに通いつづけているのである。

すると、ある日、悪童組の寿童丸や、ほかの年上の生徒が五、六名、民部の留守を見すまして、

「やい、牛糞町の童」

と、十八公麿をとりまいていった。

「おまえの父親は、六条の範綱ではあるまい。

ほんとは、日野の有範の子じゃろう」

それは、十八公麿も、知っている野で、かなしくはなかった。

黙って、澄んだ、まるい眼をして、そういう悪太郎達の顔をながめていた。

寿童は、脅かすように、

「よいか。まだ、おまえの知らないことがあるぞ。

教えてやろうか――それはな、おまえの実の父、藤家有範は、世間には、病死といいふらしてあるが、まことは、こっそり館をぬけだして、数年前から、源三位頼政の一類と一緒に謀叛をたくらんでおったのじゃ。

そして、頼政入道や、その他の者と、宇治河原で、首を打たれたのだ。……どうだ知るまい。

知っているのは、わしの父、成田兵衛だけだ。わしの父はな、宇治の平等院で、源氏武者の首、七つも挙げたのだぞ」