小説 親鸞・大衆(だいしゅ)6月(9)

【そっと、座主のお耳に入れておこうか。

――いやいや、座主には、何か、お考えもお覚悟もあって、なされたことに違いはない】性善房は、思い悩んだ。

朝の厨(くりや)の用意を、夜のうちにしておいて、ぼんやりと、院の外へ、あるきだした。

水っぽい春の月が、峰よりも低いところに、いくらか、黄いろい味をもって懸かっていた。

「山も山だが、下の巷は、なおさらだろう」

喘(あえ)ぐ人間社会の息画、月を黄いろくしているように思えた。

超然と、その人間の聚落(むら)を離れて、高嶺(たかね)の法城は、理想の生活に恵まれているかと思ったのは、いとも愚かな考えであった。

ここも、下も、変りはないのである。

人間のいる所、人間の世界でない地上はない。

西塔へ行った帰り、自分を強迫した荒法師のことばや、態度から察しると、どうも、問題は、穏やかに納まりそうもない。

一つのものが間違えば、三井寺へも、攻めてゆくし、神輿(しんよ)をふって、御所へも強訴(ごうそ)に出かけるというような乱暴な学僧のあつまりである。

【座主へ対しても、どんなことをするかわからぬし、師の少納言を、取って懲(こ)らすぐらいなことは、やりかねない】性善坊は。

寝られない気がする。

――やはり、一言、座主のお耳にいれておいたほうが――とまた迷うのであった。

すると、朧(おぼろ)なものの蔭から、

「少々、うかがいますが」

「あっ?……誰だ」

「旅の者でございます」

「参詣者か」

「いいえ、すこし、お訪ねしたいお方がございまして」

よく分からないが、見すぼらしい菰僧(こもそう)のような容(かたち)をしている。

背に、菰を負い、尺八とよぶ竹をたずさえていて、足は、藁(わら)で縛っている。

「どなたを、お訪ねですか」

「去年ごろ、粟田口から上られた、範宴少納言さまは、どこの房に、おいででしょうか」

「穂、範宴様を、おたずねか」

「そうです」

性善坊は、そういわれて、どこか聞き覚えのある声だとは思ったが、思い当る者もなかった。

「範宴様は、根本中堂の宿房においでになるが、して、おもとは」

「東山の弥陀堂にいる孤雲(こうん)という菰僧でございます」

「なんの御用で」

「すこし、お願いやら……またお顔も見たいと存じまして」

「以前に、お会いしたことが、あるのですか」

「はい、ふしぎなご縁で、六条のお館に、捕らわれていたこともございますし、また、その後も、一、二度」

「やっ」

性善坊は、びっくりして、

「成田兵衛の家人、庄司七郎どのじゃないか」

「あっ……」

帰って、その七郎のほうが、びっくりしたように、光る眼を、大きくみはって、しばらくじっと性善坊の顔を見つめていたが、

「おお、貴殿は、そのむかし、日野のお館にいた侍従介どのか」

「そうじゃ」

「これは……めずらしい」

今は、孤雲とよぶ庄司七郎の菰僧と、性善坊は、かつての争いも、恨みもわすれて、手を握りあって、互いの変った姿に、しばらくはことばもない…。