『人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ』(前期)

我が家では、小学校・保育園に行く子どもたちがいますので、朝食は子どもたちの出発の時間に合わせて別々にいただくのですが、夜は家族みんなが揃って食事をします。

小学生の子どもが最初に食事を終えることが多いです。

食事を終えて、1人で廊下を歩いて部屋に戻ろうとするのですが、廊下の電気がついていないと

「暗くて怖いから一人でいけない」

と言って食事をしていた部屋に戻ってきます。

「自分の家の中なのにどうして怖いの」

とたずねると、

「だって暗いところはオバケがでそうで怖いんだよ」

という返事がかえってきました。

オバケというのはいわゆる幽霊のことだと思います。

暗いところには幽霊が出るかもしれないということをテレビで見たり、友達に聞いたりしていくうちに自然と頭で思い込んでいくのかもしれません。

以前私の友人がご法話の中で、日本人が思い浮かべる幽霊の特徴として次の3つが挙げられると教えてくれました。

1つ目は、手が前のめりになっているという特徴です。

確かに万歳やファティングポーズをとっている幽霊というのは聞いたことはありません。

たいがい手をまえのめりにして

「うらめしや」

と言っている姿を想像します。

私たちは暗いところを歩くとき、ライト等がないときには手を前に伸ばしながら前に障害物がないかと手探りで慎重に歩いていきます。

手を前のめりにしている姿というのは、実は未来にたいする不安を表現しているというのです。

2つ目は、髪の毛が長いという特徴です。

丸刈りの幽霊というのはあまり聞いたことがありません。

たいがい相場は髪が長いことになっているのです。

日本語の表現として

「後ろ髪を引かれる」

というような表現もありますが、髪が長いということは、過去に対する後悔の念を表しているということです。

3つ目は宙に浮いているという特徴です。

スタスタと幽霊が歩く姿よりも宙に浮いている姿を想像します。

宙を浮いているというのは、過去に対する後悔の念を持ちながら、未来に対する不安を抱え、落ち着いて、今・ここという場所にじっくりと立つことのできていない迷いの姿を表しているというのです。

幽霊とはまさに過去に対する後悔の念を持ちながら、未来に対する不安を抱え、落ち着いてしっかりと、今・ここという場所にじっくりと地に足を着けて立つことのできていない迷いの存在なのです。

迷うという表現はどのような時に使われるかを考えた時、我々は先に亡くなられたあのおじいちゃんはあの世で迷っていないだろうかと亡くなった人に対して使うことがあります。

しかし、よくよく考えていくと亡き人は浄土へと生まれ往き、仏とならせていただくのですから、迷っているのは亡くなった人ではなくまさに生きている我々が迷いの存在そのものなのです。

私たち人間の迷いの姿を幽霊は象徴的に表現しているのです。

「人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ」

とありました。

苦しみというのは、外からやってくるものではなく、自分自身の迷いの心が生み出していたのだということが、仏さまの教えを聞かせていただく中にはっきりと見えてくるのです。

迷っていることさえも気づいていなかったこの私が、仏さまの教えをお聞かせいただく中でいよいよいろんなことに振り回されて苦しみ、迷っている自分の姿に気づかされるのであります。

外の方にだけ向いていた目が、自分の側に向いていくそれが仏さまの教えに出遇うということなのです。