真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」

阿弥陀仏の回向法としての「往相と還相」(11月中期)

さて、証果論において、親鸞聖人の思想における最大の特徴は、この往相の証果に対して、いま一つ還相の証果が殊に強調されている点だといえます。

そして『教行信証』では、この還相の証果が

「二に還相の廻向と言ふは、則ち是れ利他教化地の益なり。即是必至補処の願より出でたり。…また還相廻向の願と名づくべきなり」

と示されます。

このことから、還相の廻向が誓われている願とは、第二十二の願であることが明らかになります。

そしてこの第二十二願が、ことに「還相廻向の願」と名づけられていることから、「往相廻向の願」である第十七願と、この第二十二願がまさしく対応していることが知られます。

こうして「往相」と「還相」の意義は、第十七願と第二十二願の内実、より端的に言えば、「行巻」と「証巻」の根本問題が明らかになって、はじめて解明されることになります。

この還相廻向に関して、『文類聚鈔』では

「必至補処の願より出でたり。…還相廻向の願と名づく…」

と、『教行信証』とほぼ同一の表現がとられているのですが、和語の著述では

「二に還相の廻向といふは、浄土論に曰く。本願力の廻向をもっての故に、是を出第五門と名づくといへり。これは還相の廻向なり。一生補処の悲願にあらわれたり。…この悲願は如来の還相廻向の御ちかひなり」

「二、還相廻向といふは、…一生補処の大願にあらわれたり。…(第二十二願)…これは如来の還相廻向の御ちかひなり。これは他力の還相の廻向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり」

と述べられ、衆生の往生との関係を同時に含めて論じられている点で、前二者との間で、表現に微妙な差異が存在することになります。

最後に「往相廻向の教」の問題が残りました。

いったい、往相廻向の「教」とは何なのでしょうか。

これは『教行信証』のみに見られる特殊な表現で、同様に往還の二種廻向が問題にされている『文類聚鈔』『三経往生文類』『二種廻向文』では、往相廻向については、いずれも「行・信・証」が問題にされているのみで、「教」は含まれてはいません。

そうすると『教行信証』の「教巻」に説かれている思想が、この往相廻向の「教」を示す唯一の文となります。

そして「教巻」では、この教を端的に「夫れ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経是れなり」と定義されます。

浄土真宗にあって、真実の教が『無量寿経』であるということは、親鸞聖人の思想を学ぶものにおいては、自明の理とも言うべきことで、ここには何ら疑いをはさむ余地はありません。

ところが、不思議なことに「教巻」における『無量寿経』の引文を窺うと、『大無量寿経』の根本思想を説くとみなされる重要な箇所は、何一つ引用されていません。

「教巻」の『無量寿経』の引文は、ただ「発起序」の釈尊が弥陀三昧に入られて、今までにない不可思議な光顔巍巍としたお姿を示されたとする「五徳瑞現」の部分のみです。

しかも親鸞聖人は、『無量寿経』の肝心な内容を内一つ述べられることなく、釈尊が今までになく輝いたとされる「五徳瑞現」に、この『無量寿経』こそが、釈尊の出世本懐の経であり、真実の教だと証明する根本的な根拠を見られます。

このことは、いったい何を意味しているのでしょうか。

これは、釈尊の「五徳瑞現」こそが、阿弥陀仏の往相廻向の「教」が具体的にこの世に出現した証だということにほかなりません。

ただし、まだこの時点では、教法についての釈尊の説法は始まってはいません。

したがって、釈尊はまだ一言も、言葉としてこの法については語られていませんし、ましてや文字に書かれた『無量寿経』という経典は、この世には未だ一文字も存在してはいません。

けれども、迷える一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめるという、阿弥陀仏の本願の名号と功徳の教法は、今まさしく完全に阿弥陀仏から釈尊に廻向されているのです。

この内実が、やがて『無量寿経』として説かれることになるが故に、この『無量寿経』が浄土の真実の教であり、また釈尊の出世本懐の経と呼ばれることになるのですが、ただこの釈尊の説法という行為は、釈尊における真実の行道にほかならないことから、親鸞聖人はこの南無阿弥陀仏についての説法を、浄土真宗の行とし、「行巻」に語られることになるのです。

こうして、親鸞聖人はこの阿弥陀仏より廻向された教法を完全に領受されて、今まさに法悦に輝いておられる釈尊の「五徳瑞現」の心を、一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめる「往相廻向の教」そのものと捉えられたのです。

これは、阿弥陀仏の願心より、釈尊の心に廻向された教法そのものにほかなりません。

この点を「教巻」冒頭で、「謹んで浄土真宗を案ずるに」と言われているのです。

ただしこのことは、親鸞聖人の思想にあっては、浄土真実の教とは何かを、「教巻」という独自の項目を立てて掘り下げることのできた『教行信証』においてのみ語ることが可能であったのだと理解する必要があります。

往相廻向の「教」という表現が、他の著述において見られないのはこのためで、いわば、衆生と直接関係する往還二廻向の法とは、具体的は「行・信・証」ということになります。

さて、阿弥陀仏の願心より発起された往還二廻向の法が、釈尊の心に廻向され、その法が今、釈尊によって語られることになりました。

それが「行巻」以下の内容です。

そこで「行巻」以下は、具体的に阿弥陀仏の願が示され、この世に出現している「行・信・証」の、二廻向の法の物体とその功徳が明らかにされることになります。

では、親鸞聖人は、この「行・信・証」の物体とその功徳を、どのように捉えておられたのでしょうか。

それが、次の第二の問題点になります。