「汚職征討の戦い」

新聞に「汚職」とか「背任」という文字を目にすることがあります。

「汚職」というのは、公職にある者がその地位や職権を利用して収賄や個人の利益を図る不正行為を行なうことで、公職以外にある者が同様のことなした場合は「背任」といいます。

また、汚職のうち、政治にからむ大規模な贈収賄事件や、犯罪の事実を特定しにくく司法判断の難しい事件は「疑獄」と言われます。

汚職の語源は「職をけがす」という意味の「とく職」(涜職〜とくしょく)で、「とく」が当用漢字に入れられていなかったため、言い換えられて「汚職」になりました。

この他、会社の取締役など会社経営に重要な役割を果たしている者がなした場合は、特別背任罪に問われたりします。

経済発展の著しい中国では、近年この「汚職」が深刻な問題となっているようですが、政治家や官吏、教育者たちの汚職が大きな問題となるのは、それが単に物質的損害を与えるばかりでなく、社会から品位を失わせてしまうことにあります。

なぜなら、公職者の汚職は、国民の社会に対する敬意や道徳的緊張を失わせてしまうことら繋がるからです。

それは、具体的には

「自分だけが得をすれば良い」

という、自己中心的な考えを優先する風潮が横行する社会になるということにほかなりません。

では、「汚職」のない国家が世界のどこかにあるのでしょうか。

実は、明治時代の日本は、ほとんど汚職のない国家でした。

もちろん、そのような社会を獲得するためには、数万の兵士の死と、莫大な戦費、戦火による人びとの被災という、凄まじいばかりの代償を払うということがありました。

その「代償」とは何かというと、明治10年に起こった西南戦争(西南の役)です。

一般に、この戦争は征韓論や失業士族の憤懣に起因するものとみなされていますが、戦役勃発の決定的な理由は、福沢諭吉が『丁丑公論』で

「其(戦争の)原因は政府の方に在り」

と断定しているように、明治政府の、具体的には官員たちの「品行」の悪さにありました。

明治維新によって政府の官員になった者の中には、幕政期には下層階級の武士であった者もあり、思わぬ身分を得て心の平衡を失い、品行の悪い者が少なからずいました。

一方、西南戦争の首謀者とされる西郷隆盛は、東京に在るときは古屋敷に下僕と住み、男所帯でひっそりと暮らし、出入りは徒歩だったため、近所の人たちは彼が誰であるとも知らず、ましてや参議・陸軍大将であると気付くこともなかったと言われます。

西郷は、明治6年11月に突然、職を辞して単身故郷の鹿児島に帰ってしまうのですが、そのとき

「脱出す、人間虎狼ノ群」

という句を残しています。

また、当時西郷は

「ちかごろこんなありさまでは、倒幕のいくさは無益の労だった。かえって私どもが倒した徳川家に対して申し訳がない」

とも口にしていたそうです。

当時の官員のあり方への失望感の大きさが窺えます。

その頃の日本は、まだ憲法を持たず(大日本定刻憲法は1889年/明治22年2月11日に公布、1890年/明治23年11月29日に施行)行政府だけで立法府(議会)がなく、司法府も独立していませんでした。

そのため、司法卿の江藤新平も世間を騒然とさせた同僚(井上馨・山県有朋)の汚職を糾しきれず、自らの主張を貫くためには帰郷して佐賀の乱を起こすしかありませんでした。

もし、当時独立した立法府があり、江藤や西郷がそこに身を置いていればまた違う形で主張を貫く方法があったかもしれませんが、共に地元に戻るや周囲の不平士族にかつがれて乱を起こすということになってしまいました。

皮肉なことに、西南戦争勃発時の政府軍の総司令官は山県有朋、またその莫大な軍費を調達したのは井上馨、つまり二大汚職事件の首魁であった人たちでした。

江藤、西郷は自らの正義を貫こうとして、そのために滅び、賊名さえ着せられました。

けれども、この乱による衝撃が政府の官員たちを粛然とさせたようで、以後明治が終わるまで、殆ど汚職はありませんでした。

「歴史」は英語で「history」=「彼の物語」です。

一般に「征韓論」を起因として語られる西南戦争ですが、その中心的人物である

「西郷隆盛の物語」

という視点から見ると、

「汚職征討の戦い」

であったと見ることもできて、これまでとはまた違うとらえ方ができるようにも思われます。

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