私の孫は、現在3歳と8カ月くらいになりますが、両親のことを母ちゃん父ちゃんと呼び始めた時から、親を絶対に間違えたりはしません。
一方で、真宗のご門徒の方でも、ご自宅のお仏壇な参ってみると、般若心経のお経があったり、観音菩薩像があったりすることがあります。
何が言いたいかというと、阿弥陀さまは私たちみんなの親さまなのに、どなたが親なのか迷うておる人が多いんじゃないかということです。
南無阿弥陀仏と親を呼んだらもう親を間違うことはないです。
苦しいときも南無阿弥陀仏。
悲しいときも南無阿弥陀仏。
わかってくださる親があったな。
嬉しいときも南無阿弥陀仏。
ともに喜んで下さるまことの親があったなと、まことの親に励まされながら育てられながら、ひとときの人生を「おかげさまでございます」と、強く明るく歩ませていただく。
そういう我が身にならせていただくことが大事なんです。
「恋しくば、南無阿弥陀仏を称うべし。我も六字のうちにこそ住め」
という言葉があります。
先立たれた方がたも、南無阿弥陀仏の六字のうちにはたらいていて下さっておいでです。
苦しいときがあったら南無阿弥陀仏。
「じいちゃんが頑張れっておっしゃっとるな。頑張らせてもらいましょう」
嬉しいときも南無阿弥陀仏。
「みんな喜んで下さっとるな」
と、お念仏の中に思いを深めさせていただきながら、この人生をおかげさまと生かさせていただきましょう。
真宗のご門徒の中には「成仏するつもり」でいる人もいますが、“つもり”じゃ絶対に成れませんよ。
真言宗にしても禅宗にしても法華宗にしても真宗にしても、本来ならば善根功徳・修行を積まないと仏に成れないんです。
ご開山親鸞聖人は、善根功徳は「積めない」と歎かれました。
だからこそ、善根功徳は阿弥陀仏の方から成就して下さったんです。
そして、「そのまま来いよ」喚んで下さっておいでです。
その親さまからのお喚び声が、南無阿弥陀仏の六字のお名号なんですね。
♪捨てた諸仏がおるゆえに
助ける親がここにおるぞよ
来られん所へ来いと言うがではないぞ
行かれん所へ行けと言うがではないぞ
来いよの御意は五劫思惟の阿弥陀さま
行けよの御意は娑婆往来八千土の釈迦如来
来いよの御意も先手なら
行けよの御意も先手
先手と先手の板挟み
後手に回った我々は
ごてごて思案をさらりと捨てて
かかる機までもこのままが
往生させてくださるとは
何と有り難いことよ
もったいないことよぞと
仰ぎあげては南無阿弥陀仏
いただきあげては南無阿弥陀仏