親鸞・去来篇 2014年2月7日

その法師武者は、昼間、範宴が講堂で小止観(しょうしかん)を講義しているながい間を、法(ほう)筵(えん)のいちばん前に坐って終始じっと居眠っているもののようにうつ向いて聞いていた、この山に見馴れない四十前後の――あの男なのであった。

駈けてきて、

「狼藉者(ろうぜきもの)っ」と叱りつけた。

声に、ただならぬ底力(そこぢから)があって、鉄(くろがね)のような拳(こぶし)をふりあげると、

「法(のり)の御山(みやま)において暴力を働くものこそ、仏賊だ、仏敵だ、疾(と)く、消えうせぬと、太夫房(たゆうぼう)覚(かく)明(みょう)がただはおかぬぞ」

と、一人の横顔を、頬の砕けるほど打った。

撲られた法師は、

「わっ」と顔をかかえて、崖のかどを踏み外(はず)した。

他の者たちは、

「おのれ、叡山(えいざん)の者とも見えぬが、どこの乞食法師だ。よくも、朋輩を打ったな」

太刀や棒切れが、こぞって彼の一身へ暴風のように喚(わめ)きかかってきた。

自分から太夫房覚明と名乗ったその男は、面倒と思ったか、腰に横たえている陣刀のような大太刀をぬいて、

「虫けらめ!なんと吐(ほ)ざいたッ――」

ぴゅんと、刀(やいば)のみね(、、)が鳴って、一人の法師の首すじを打った。

刎(は)ねとばされた棒切れは、宙に飛んで、二、三人が左右へもんどり打ってちらかった。

(かなわぬ)と思ったのであろう、法師たちは、何か犬のように吠えかわしながら、尾を巻いて逃げてしまった。

性善坊と組みあっていた者も、仲間の者が怯(ひる)み立って逃げだすと、もう、勇気も失せて、彼を捨てていちばん後から鹿のように影を消してしまった。

「どなたか存じませぬが……」

性善坊は、あらい息を肩でついて、

「――あやうい所を……ありがとうございまする」

「どこも、お怪我(けが)はなさらぬか」

「はい」範宴も頭をさげて、心から礼をのべた。

そして、星明りに、自分よりも背のすぐれて高い逞しい大法師の姿を見あげながら、どこかで見たように思った。

太夫房覚明は、あたりの草むらや樹蔭をなお入念に見まわしながら、

「いずこの房の者か、卑怯な法師輩(ばら)じゃ、学問の上のことは、当然、学問をもって反駁(はんばく)するがよいに、公(おおやけ)の講堂では論議せずに、暴力をもって、途上に、範宴どのを要して、無法なまねをいたすとは、仏徒のかざ上(かみ)にもおけぬ曲者(くせもの)、まだどんな、卑怯な振舞いせぬとも限らぬ、一乗院まで、お送りして進ぜよう」

そういって、彼は先にあゆみだした。

その足ぶみや、物腰には、どこか武人らしい力があって、

「おそれいりまする」

といいつつも、範宴は心づよい気がして、彼の好意に甘えて後ろに従(つ)いて行った。

それにしても、太夫房覚明などという名は、この叡山でも南都でも聞いたことがない、いったいこの人物は何者だろうかと考えていた。