親鸞・女人篇 2014年3月22日

やがて、鷹司(たかつかさ)卿(きょう)が、

「使僧」と、よんだ。

「は」範宴は顔をあげた。

「おもと、何にても師の慈円にかわって、答え得るか」

「師のお心をもって――」

「うむ」うなずいて少し膝をすすめ、

「さらば問うが、不犯(ふぼん)の聖(ひじり)たる僧正が、あのような艶(なま)めかしい恋歌を詠み出でたは、そも、どういう心情(こころ)か」

「僧も人間の子にございますゆえ――」

「なんじゃ」大胆な範宴の答えに、諸卿は色をなして、

「――では、僧正も人間の子なれば、女犯(にょぼん)あるも、恋をするも、当りまえじゃと、おもとはいうか」

「さは申しあげませぬ」

「でも今、僧正も人間の子なればと、返答したではないか」

「いかなる聖(ひじり)、いかなる高僧といえ、五慾煩悩(ぼんのう)もなく、悪業(あくごう)のわずらいもなく、生れながらの心のまま白髪になることはできません。

大地はふかく氷を閉ざしても、春ともなれば、草は萌(も)え、花は狂う。

その花もまた、永劫(とわ)に散らすまいとしても、やがて、青葉となり、秋となるように。

――これを大地の罪といえましょうか、大いなる陽の力です、自然の法則です」

「さような論は、云い開きにはならぬ、いよいよ、僧正の罪を、証拠だてるようなものじゃ」

「しかし」範宴の頬には若い血が春そのもののように紅(あか)くさした。

「しかし何じゃ」

「釈尊は、人間が、その自然の春に甘えて、五慾におぼれ、煩悩に焦(や)かれ、あたら、永劫(とわ)の浄土を見うしのうて、地獄にあえぐ苦患(くげん)の状(さま)を、あわれとも悲しいこととも思われました。

さらば弥陀(みだ)は第一に、五戒を示し、五戒の条のひとつには、女色を戒(いまし)めておかれたのです」

「それを犯した僧正は堕落僧じゃ、遠流に処して、法門の見せしめとせねばならん」

「僧正の身はご潔白です。

あのお歌が、若々しい人間の恋を脈々とうたっているのでもわかります。

密(ひそ)かに、女犯(にょぼん)の罪をかさね、女色に飽いている人間ならば、あのお年齢(とし)をもって、あのような若々しい歌は詠(よ)み出でられません。

もう、人間の晩秋に近い僧正の肉体です。

それなのに、まだあのような歌が詠まれるのは、いかに、僧正が、今日もなおお若いお心でいるかという証拠であり、そういう肉体を老年まで持つには、清浄な禁慾をとおしてきたお方でなければならないはずです。

ことにまた、ご自身に、お疑いのかかるような後ろぐらい行状があれば、なんで、情痴(じょうち)の惻々(そくそく)と打つような恋歌などを、歌会の衆座になど詠みましょうか。

もっと、聖(ひじり)めかした歌を詠んで、おのれの心をも、人の眼をも、あざむこうとするにちがいありません」

範宴はすずやかにいって退(の)けた。

ことばの底には、人を打つ熱があった。

彼は、僧の禁慾がいかに苦しいものか、自分にとって尊いものか、現在の自分に比べても余りに分かりすぎている。

彼は、師の弁護をするという気持よりも、いつか自分の行(ぎょう)の深刻な苦悩に対して、思わず涙を流していっているのであった。