よく知られていますように、お釈迦さまはご誕生のときに七歩あるいて「天上下下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられています。
一見すると「天上下下唯我独=天地の間において、ただ私一人のみが尊い」というのは、何となく自分だけを偉い者だとする一方、他を見下す言葉であるかのような印象を受けます。
けれども、この言葉は決して「他には誰一人として尊いものはなく、ただ自分一人だけが尊いのだ」ということを述べているのではありません。
「天上天下唯我独尊」とは「ただ自分一人にして尊い」ということです。
それは、言い換えると「裸のままの自分で尊い」ということです。
振り返ってみますと、日頃私たちは他の人と接する場合、その人のあるがままの姿ではなく、ともすれば
その人の外側に附属している学歴とか地位、あるいは名誉とか財力といった事柄を通して見てしまうことが少なからずあります。
そして、自身をもまた、同じような事柄で飾り立てようとしています。
ここで語られている「唯我独尊」というのは、そのように外を飾ることによって自身が尊くなるのではなく、「与えられているそのいのちのままにして尊い」ということを言い当てようにとしている言葉です。
ところで、一般にはお釈迦さまの誕生時の言葉は「天上天下唯我独尊」であったと伝えられていますが、『仏説無量寿経』の中では、このときの言葉は「吾当於世、為無上尊(われまさに世において無上尊となるべし)」となっています。
「無上尊」というのは、言葉の表面からは
「あらゆる人の中で自分が一番上になる。すべての人びとの上に立つことを願う」
という意味に理解することができます。
けれども、人よりも上になって、単にそれを喜ぶような心は、決して「無上」なるものではありません。
なぜなら、人より上に立つことで満足してしまう在り方は、常に他の人が自分の上になることを恐れる在り方と表裏一体のものに過ぎず、同時にまた自分より下にいるものがなくては安心することができない在り方に他ならないからです。
したがって、そのような意味で語られる「無上尊」であるなら、本当の意味での「無上尊」ではありません。
『仏説無量寿経』で述べられている「無上尊」とは、他の人より上になることで満足するような比較の中で語られるものではなく、「すべての人びとを尊べることにおいて無上」ということなのです。
どのような環境の中にあっても、またどのような人びとの中においても、自らを尊び、他を尊ぶことができる人は、すべての人びとの上に、限りない尊さを讃嘆(さんだん)していくことのできます。
仏教では、仏さまの心を「四無量心(しむりょうしん)」といい「いつくしみの心(慈)・いたむ心(悲)・人の喜びを自らの喜びとする心(喜)・分別を捨て一切を平等に見る心(捨)」の四つをもってかたどっています。
『仏説無量寿経』に見られる「無上尊」というのは、この中の「喜」つまり他の喜びを自らの喜びとする心のことです。
それは、一切の存在の上に、諸仏の徳を見ていくことができる人であり、そのような人はどのような中にあっても自分を卑下したり劣等感に悩むことはなく、反対に優越感に陥ることもなく確かな足どりで生きていくことの出来る人です。
仏道とは、そういう「あるがままの自分を尊ぶことを明らかにする道」です。
それは、まさにあるがまのの自分に本当に安んじていける心が開かれる道だということです。
「唯我独尊」〜「あなたはあなたであることにおいて尊い」というこの語りかけは、「私たちが生きていく上で何よりも大切なことは、無意識の内にいま出会っている人びとを学歴や地位など外の飾り付けで判断しようとしたり、同様に自らを名誉や財産などで飾り立てようとすることではなく、互いに与えられているいのちのままにして尊いことに頷き合うことの大切さ」を教えてくれているのだと思います。