「知足不辱、知止不殆」という言葉が『老子』にあります。
これは、
「足るを知れば辱(はずかし)められず、止(とどま)るを知れば殆(あや)うからず」
と読みます。
「控えめにしていれば辱めを受けない、止まることを心得ていれば危険はない」という意味で「止足の戒め」といわれます。
仏教にも「小欲知足」という言葉がありますが、相通じるものが感じられます。
この「止足の戒め」について、次のような逸話があります。
前漢の宣帝の時代に疎広(そこう)という人物がいた。
優秀な人であったことから朝廷に招かれ、皇太子の教育係を務めたが、やがて皇太子の学問が進んだことを見届けると「足るを知れば辱められず功とげ身を引くは天の道なり」と述べて辞任を願い出た。
その後、郷里に帰ってからは、朝廷から賜った金品を惜しげもなく散じ、親戚、友人たちを酒席に招いて共に楽しんだ。
すると、そのような生活を心配した友人が「子孫のために、少しは田地でも買ってはどうか」と勧めたところ、疎広は
「子孫に余分な財産など残してやるのは、怠惰を教えるようなものです。賢者で財産の多い者はその志を傷つける結果となり、愚者で財産が多ければ過ちを増すのみです。しかも富はとかく民の恨みを買うものです。
私は過ちを増し、人の恨みを増すようなことはしたくありません。」
と言って、余分な財産を子孫にいっさい残そうとはしなかった。
このような疎広の生き方を、世間の人びとは
「止足の計を行い、辱殆(じょくたい)の累(わざわい)を免る」と評価したと言われます。
日本には、西郷隆盛の詩に「児孫のために美田を買わず」という言葉があります。
意味は、「子孫に財産を残すと、それに依存して安逸な生き方をするので、財産を残さない」ということのようですが、もしかすると『老子』の「止足の戒め」を踏まえてのものだったのでしょうか。
ところで、この言葉は、
幾たびか辛酸を経て志(こころざし)始めて堅し
丈夫玉砕(ぎょくさい)すとも甎全(せんぜん)を恥ず
一家の遺事人知るや否や
児孫の為に美田を買わず
という詩の一節で、明治4年1月20日に揮毫(きごう)された書が、現在も残っています。
「児孫の為に美田を買わず」の部分は、名言集などでもおなじみです。
この詩全体を意訳すると
幾度かの辛く苦しい経験を経て
私の志は今や揺るぎないものとなっている
真の男子は節義のためなら潔く死ぬことができるが
ただいたずらに生き長らえることを恥じるものである
我が家の遺訓を世の人は知っているだろうか
それは、自分の子供や孫のために財産を残そうとはしないというものだ
ということでしょうか。
よく知られている「児孫の為に美田を買わず」という言葉は、一見すると疎広の話と相通じるものがあるように思われますが、詩全体の意味からすると「子孫のためにならないから美田を買わない」というよりも、むしろ「志を果たすためには、全てのものを犠牲にする覚悟ができている」ということを物語ろうとしているようにも思われます。
西南戦争は征韓論に破れたことが一因ともされていますが、実は明治新政府の官僚たちが、幕末の頃に抱いていた新国家建設の志を見失い、自らの利権のために奔走していたことを正そうとするためであったとも言われています。
したがってこの言葉は、政府の高官であった時も贅沢とは無縁の生活を押し通した西郷隆盛らしい痛烈な批判を吐露したものとも言えます。
時代を遡った1600年、天下分け目の関ヶ原合戦の折り、東軍方が石田三成の居城であった佐和山城を落とした際、豊臣政権下の五奉行の一人として権勢を奮った三成の城ということで、さぞや多くの金銀財宝が蓄えられているものと意気込んで乗り込んだところ、城は質素な作りで期待した蓄財の類はなかったと伝えられています。
西郷隆盛の詩の一節「丈夫玉砕すとも甎全を恥ず」を想起させる、関ヶ原合戦にすべてをつぎ込んで臨んだ三成の心意気が窺い知られる逸話です。
疎広は、功成り名遂げた後は保身のために官を辞して郷里で散財しました。
三成も、主君であった秀吉の死後、一時は五奉行の職を辞して佐和山に退隠していたのですが、やがて蓄財を注ぎ込んで天下分け目の決戦に臨みました。
共に「子孫に財産を残さなかった」という点では同じですが、国や時代、立場も異なるとはいえ、処世の仕方の違いが興味深く思われます。
私たちは、少しでも財産があれば「子孫のために残せたら…」と思うかもしれませんし、反対に「止足の戒め」に共感してそれを実践しようとするかもしれません。
この場合「自分は、どのような生き方をすれば良いのか…」、そういったことを考える時、先人の物語(歴史)は、私たちにいろいろなことを示唆してくれます。
先人の足跡を辿りながら、自分はどのような生き方をするべきか、考えてみたいものです。