峰阿弥がたり 2014年6月10日

「しかし、頼まれはしたものの、その品を、お渡しいたしたほうがよいものか、悪いものか、迷わざるを得ません……範宴僧都、あなた様には、思いあたることがございましょう」

「私に?……誰から?……」

「お麗(うつく)しいお方です。いやよしましょう、わしの半生がそうだったからあなた様にもそうなれとはおすすめできない。人間の運命は、その人間自身が作るものだ、わしはその品を、ここへ置いてゆきますが、それを手に触れるなともお受けなされとも、わしは申しません。あなた様ご自身でとくとお決めなさるがよろしい」

峰阿弥はそういって袂(たもと)の蔭から一葉の短冊を取り出した。

なにやら書いたほうを下にして床几(しょうぎ)のうえに伏せた。

石を拾って風で飛ばないようにするまでの綿密な心づかいをこの盲人はして立ち去ろうとするのだった。

「お待ち下さい」

範宴は呼びとめて訊ねた。

「おん身の峰阿弥という名は、琵琶を持ってからの仮の名でしょう。その以前、寺においでのころはなんと仰せられていたお方か、さしつかえなくば聞かせて欲しい」

「さよう……。恥の多い前身の名を申し上げるは面映(おもは)ゆいが、実は、わしは、興福寺にい教信(きょうしん)沙(しゃ)弥(み)でおざるよ」

「あ……教信」

聞いたことがある、奈良ではかなり有名な人だ、学徳兼備の僧のようにいわれていたこともある、それが、奈良の白(しら)拍子(びょうし)との噂が立って放逐(ほうちく)され、播州(ばんしゅう)の加古川(かこがわ)で渡し守をしているということが世間の笑い話になってから「加古川の教信沙(しゃ)弥(み)」といえば堕(だ)落(らく)僧(そう)の代名詞のようになって落首(らくしゅ)や俗謡(ぞくよう)にまでうたわれたものだった。

その教信沙弥がこの人なのか――範宴はそう聞くとこの盲人が前にいったことばももう一応考え直してみなければすまないような気持がしてきた。

だが峰阿弥のすがたは、白いものの飛ぶ朧(おぼろ)な樹蔭をもうとぼとぼと彼方(かなた)へ去っていた。

そして、彼のいた床几(しょうぎ)のあとには、一葉の短冊が謎のように置き残してある。

眼の見えるつもりでいた自分は、眼の見えない峰阿弥になにもかも見透(みす)かされていた。

彼のいう通り自分は今おそろしい心のてん倒(てんとう)を支えている。

今日までの信念をあくまで歩みとおすか「加古川の沙弥」の行った道を歩くか、その岐路(きろ)に立っている。

「?……」

小石に抑(おさ)えられている短冊は、鶺鴒(せきれい)の尾のように風におののいていた、誰の文字か、何が書いてあるか、範宴の心も共におののくのであったが、彼は、

(見まい)と心でいった。

彼の強い情熱をより強い智慧の光がねじふせるように抑止(よくし)した。

(触れてはならぬものだ)彼は亭(ちん)を出た。

自分に打ち勝ってさらに高い自分へ帰着した爽(さわ)やかな心もちへ夜風がながれた。

すると、亭のうしろにでも潜(ひそ)んでいたのであろう、すぐその後へまわって短冊を手に持って、追ってくる女があった。

呼びとめる声にふり向いてみると、それは姫に附いている侍女(こしもと)の万野(までの)であった。

「範宴様、せっかくのお歌でございますのに、後(あと)でお捨て遊ばすまでも、どうぞ、見てあげて下さいませ」

短冊を範宴の手へ無理に持たせると、万野は、逃げるように、落花の闇へかくれてしまった。