小説・親鸞 手長猿 2014年8月13日

この世のあらゆる音響から隔(かく)離(り)している伽(が)藍(らん)の冷たい闇の中から突然起った物音なのである。

すさまじい狼藉(ろうぜき)ぶりで、それは次から次へと、仏具や什(じゅう)器(き)を崩したり、家鳴りをさすような跫音(あしおと)をさせて、広い真っ暗な本堂を中心として、悪魔の業(ごう)が動き出している。

勿論、凡者(ただもの)の所業(しわざ)ではない、夕方、横川を渉(わた)って飯(いい)室谷(むろだに)へかかった天城四郎とその手下どもの襲ったことから始った事件であった。

洛外の蓮台(れんだい)野(の)の巣を立ってきた時から彼らはすでにあらかじめ大乗院を目的として来たに相違なく、四郎がまず先に立って、妻(つま)扉(ど)をやぶって歩き、つづいて十数名の者が内陣へ入って、まず厨子(ずし)の本尊仏をかつぎだし、燭台経机(きょうづくえ)の類をはじめ、唐織(からおり)の帳(とばり)、螺(ら)鈿(でん)の卓、瑩(えい)の香炉、経(きょう)櫃(びつ)など、床(ゆか)の一所(ひととこ)に運び集める。

それを頭領の四郎がいちいち眼をとおして、

「こんな安物は捨ててゆけ」

とか、これは値(ね)になるとか、道具市のがらくたでも選り分けるように分けているうちに、慾に止まりのない手下どもは、土足の痕(あと)をみだして方丈の奥にまで踏み入り、なおどこかに、黄金でもないかと探し廻って行く。

すると、ようやくこの物音を知った庫裡(くり)の堂衆が二人ほど、紙燈心を持って駈けてきたが、賊の影を出合いがしらに見て、

「わっ!」と腰をついて転んだ。

「騒ぐと、ぶった斬るぞっ」

刃を突きつけると、堂衆の一人は盲目的に賊へ武者ぶりついた。

他の賊があわててその堂衆の脾(ひ)腹(ばら)へ横から刃を突っこんだので、異様な呻(うめ)きをあげて床へ仆(たお)れた。

「畜生っ」

と血刃をさげて、賊は逃げてゆくもう一人の堂衆を追い込んで行った。

堂衆は驚きのあまり、何か意味のわからない絶叫を口つづけに喚(わめ)きながら暗い一室へ転げ込んだ。

「野郎っ」

と賊はすぐ追いつめて、隅へ屈(かが)まった堂衆の襟がみをつかんだが、その時、漆(うるし)のような室内のどこかで、

「誰だ――」

といった者がある。

おや?と振りかえって闇を透(す)かすように眼をかがやかせたのである。

見ると、床の上に円座を敷いて、あたかも一体の坐像でもすえてあるかのように一人の僧が坐っていた。

「うぬは何だ」

賊がいうと、僧は静かに、

「範宴である」

と答えた。

「えっ」

思わずたじろいで、

「範宴?聖光院の範宴か」

「さよう」

低い声のうちに澄みきったものがある。

その澄みきった耳は最前からの物音をしらぬはずはないが、その態度には小波(さざなみ)ほどの愕(おどろ)きも出ていなかった。

※「瑩(えい)」=玉に似た美しい石。