小説・親鸞 離山 2014年9月19日

どこに臥(ふ)し、どこに食を得ていたか、ここ数日の範(はん)宴(えん)の所在はわからなかったが、あれから叡山(えいざん)へは帰っていないことと、洛内(らくない)にいたことだけは確実である。

粟(あわ)田(た)山(やま)の樹々は、うっすらと日ごとに春色を加えてきた。

黒谷の吉水(よしみず)には、夜さえ明ければ、念仏のこえが聞えやまなかった。

信徒の人々の訪れては帰る頻繁な足に、草原でしかなかった野中はいつのまにか繁盛な往来に変っていた。

その人通りの中に範宴のすがたが見出された。

勿論、彼を範宴と知る者はなかった。

安居院(あごい)の法印のように、よほど記憶のよい人か、親しい者でなければ、その笠のうちをのぞいても気がつくまい。

(どこの雲水か)と、振りかえる者もない。

女も老人(としより)も、子供も、青年(わかもの)も通る。

その階級の多くは元より中流以下の庶民たちであるが、まれには、被(かず)衣(き)をした麗人もあり、市(いち)女(め)笠(がさ)の娘を連れた武人らしい人もあった。

また、吉水(よしみず)禅房(ぜんぼう)の門前も近くには、待たせてある輦(くるま)だの輿(こし)だのもすえてあった。

範宴は、やがて、大勢の俗衆と共に、そこの聴(ちょう)聞(もん)の門をくぐってゆく。

法(ほう)筵(えん)へあがる段廊下の下には、たくさんな草履だの、木(ぼく)履(り)だの、草鞋(わらじ)だのが、かたまっている。

彼もそこへ穿物(はきもの)を解き、子の手をひいて通る町の女房だの、汗くさい労働者だの、およそ知識程度のひくい人々のあいだに伍して、彼もまた、一箇の俗衆となって聴法の床に坐っていた。

こうして、範宴がここへ来る願いは、まだ法然上人に会って、心をうち割ってみるとか、自分の大事についてただしてみるとかいうのではなくて、自分もまず一箇の俗衆となって、これだけの民衆をすがらせている専修念仏門の教義を、学問や小智からでなく、凡(ぼん)下(げ)の心になって、素直に知ってみたいと思うのであった。

四条の畔(ほとり)で、安居院の法印からいわれた示唆は、今もまだ耳にあって、天来の声ともかたく信じているのであるが、範宴には、いきなり法然の門へ駈けこんで、唐突に上人に会ってみるより、上人の唱える念仏門が何であるか、それを知ってから改めて訪れるべきだと考えられた。

また、従来の自分というものを深く反省(かえりみ)てみると、学問に没しすぎてきたため、学的にばかり物を解(げ)得(とく)しようとし、どんな教義も、自分の学問の小智に得心がゆかなければうけ取ることができない固執をもっていた。

理論に偏しすぎて、実は、理論を遊戯していることになったり、真理を目がけて突きすすんでいると思っていたのが、実は、真理の外を駈けているのであったりしてきたように思われていたのであった。

――で、この期(ご)にこそ、まず自分の小智や小学やよけいな知識ぶったものを一切かなぐり捨てて、自分も世間の一(いち)凡(ぼん)下(げ)でしかないとみずから謙虚な心に返って、この説教の席にまじって、耳をすましているのであった。