新たなる年が始まりました。
お寺にお参りにこられる高齢の方々の多くが「年をとってからの1年は本当にあっという間ですよ」という話をされます。
若いときは、1年があっという間なんてと気にしてはいなかったのですが、自分自身が歳を重ねるにつれ、最近少しずつその言葉の意味を感じられるようになってきました。
一休さんが「元旦や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と詠っておられます。
今、こうしていただいているいのちをどう受け止めるかが問題となってくることかと思います。
元旦を迎えて、また命が一年短くなったと思われる方にとってはめでたくはないでしょう。
しかし、いつどこでどのようなご縁でいのちの縁尽きてもおかしくないこの私のいのちが、また新しい年を迎えることができたと思える人にとってはめでたいことでしょう。
念仏者である鈴木章子さんが書かれた『癌告知のあとで』という本の中に「変換」という次のような詩があります。
『死に向かって進んでいるのではない今をもらって生きているのだ今ゼロであって当然の私が今生きている』という詩です。
多くの人々は「人生は死に向かって進んでいる」と考えていないでしょうか。
それは自分自身で寿命を決めるからではないでしょうか。
男性の方であれば今、平均寿命が約80歳とした場合に、60歳になったらあと20年。
70歳になったらあと10年ある。
あるいは10年しかないとなります。
そのように自分の人生の長さを勝手に決め込んでいくから死に向かって進んでいると思うのです。
そういう人生を章子さんは、「引き算の人生」と言われました。
しかしながら、人生は死に向かって進んでいるのではなく、今をもらって生きているのです。
突然の事故や天災あるいは病気によって亡くなられた方々はまさか自分がそういったことで命を落とすとは思ってもいなかったことかと思います。
それは、他人事ではなく私の身の上に起きてもおかしくないことなのです。
それが私たちの生きているこの娑婆の世界です。
そうした中で、今、いのちあること、今をもらっていきていること、これを章子さんは「足し算の人生」と言われたのです。
癌で48歳で亡くなられた章子さんの「今、ゼロであって当然の私が今、生きている」というこの言葉の中に、今、この瞬間を生きていることの尊さ、ありがたさを本当に喜びながらかみしめながらいのち輝かせている姿がしみじみと伝わってくるのです。
私自身も引き算の人生から足し算の人生への変換を通して、「いのち日々あらたなり」の日暮しを送らせていただくことです。