鹿児島城下町物語(下旬)何か1つのきっかけで歴史は非常に面白くなる

他にも、天文館は花岡屋敷と日置屋敷の二つで出来あがっている所でした。

その天文館のアーケードから一つの海側の通りは、町屋敷と武家屋敷の境目として、かつて松が植えられていたため松山通りといいます。

さらに、かつと11万〜12万基のお墓が並び、小高い高台にあった南林寺、その高台に登る入り口が山之口だったんです。

そういうふうに、鹿児島の城下を考えますと、町歩きの見方も変わってきて、じゃ自分の家はどうなのかなと興味がわきませんか。

このように、何か一つきっかけがあると、歴史は非常に楽しく見ることができる訳です。

それから鶴丸城。

このお城は、島津義弘公の子どもで、薩摩藩の初代藩主である家久公が作りました。

当時、ここを作るときに義弘公は海に近いため、防衛上の問題から反対したといいます。

特に薩摩のお城というのは、天守閣がありません。

それが薩摩の誇りなんです。

薩摩には、「人をもって城と成す」という言葉があります。

外城制(とじょうせい)といいまして、内城の鶴丸城の他に、地方に102ものお城があったんです。

外城といいます。

それが江戸時代になりますと、一国一城制になりますから、外城は取り壊さなければいけませんでした。

しかし、取り壊しの後も、薩摩藩は武士を全部鹿児島城下に引き上げることをせず、そのまま外城のあった場所に残し、支配下に置いていました。

だから、外城のあった所を麓(ふもと)と呼んでいる訳です。

麓とは、武士が住んでいた所なんです。

それから、鹿児島の町の中には。

千石馬場とか高見馬場など、馬場とつく所が地方を含めてたくさんありますよね。

実は、武家屋敷のあった所、屋敷の通り道を馬場といっていたのです。

鹿児島の町というのは、今は南の方に伸びていますが、昔は稲荷川を中心に栄えていました。

そして鹿児島城、別名を鶴丸城と呼ぶ島津氏の本拠地が現在の場所に構えられたのは、江戸時代になってからのことでした。

鶴丸城の名の由来は、地形的にこの鹿児島の町がお城を囲んで鶴が羽を広げたように広がっているからだといわれます。

このように、鹿児島の歴史は城下町だけでも、拾い上げればもうたくさんある訳です。

こうした鹿児島の城下というのは。

本当に歴史の宝庫、何ともあらゆるものが詰まっている。

そういう所なのです。

ですから、後世にこれをみんなで大事に育てていきたいなと思います。