鹿児島城下町物語(中旬)鹿児島は明治維新以後、偉人が出ていない

先般、私は山口の歴史シンポジウムで、薩摩は明治維新では活躍したが、それ以後は偉人もすぐれた政治家も出ていないじゃないかと、きついことを言われました。

そのことをよく考えてみますと、西南戦争が大きな原因になっていると私は思いました。

つまり、戦争でたくさんの有能な若者たちをたくさん失ってしまったのです。

薩摩は、島津氏のもと700年も続いて支配者が変わらなかった国です。

これを挙藩一致といって、何をやろうとしても藩が一つにまとまるというところに鹿児島の特色があります。

島津氏には、平氏や弥寝氏や肝付氏など反対派がたくさんいました。

これらを征服するときでも、血を絶やすまではしませんでした。

戦うときは徹底して戦いますが、いったん相手が恭順の意を示したら後は許したんです。

そういう許す精神を持っていたから長く続いてきたわけです。

しかし、薩摩は西南戦争によって多くのものを失いました。

鹿児島城下は9割5分が焼けたといいます。

その70年後、今度は太平洋戦争で再び焼かれてしまいました。

薩摩という国は、戦争のために人材を失い、施設を失い、意欲を失ってきたんです。

そして、挙藩一致、薩摩が最も大事にしてきた、一つにまとまって取り組むやり方であるが故に、その一つがつぶされて、全部が焼け野原になってしまった訳です。

人材が出ないはずですよ。

そう考えると、戦争と名のつく限り、これはやっぱりやってはいけない。

もう何もかも失ってしまう。

このことは、やはり記憶しておかなければいけないことだと思います。

さて、鹿児島の城下町と言いますと、ものすごくいろんな話題があるんです。

でも、今言いました通り焼けていますから、残念ながら建物は残っていません。

残っているものは、ほとんどがみんな石です。

今の鹿児島は、石と銅像でできた歴史の町なんです。

例えば、鶴丸城の石垣や石碑、西南戦争で戦闘のあった私学校の鉄砲跡などがずっと残っています。

こういうものを見ると、いろんなイメージが湧いて、そうだったんだなというようなことが分かる訳です。

とはいえ、建物が焼けてしまって残っていないというのは、鹿児島の悲しいところでもある訳ですね。

鹿児の城下といいますと、先ず金生町があります。

ここは、以前は木屋町通りといいました。

それは、建物や建具屋さん、そういう木を扱うお店がたくさんあったからなんですね。

火事も多かったので、火災予防のために広場も作られていました。

同時に木屋町通りの一帯は、非常に商売が盛んだった所でもありました。

それで、木屋町で火事が多いならと、燃えないように木を金に変えたんです。

今は「金が生まれる」と書いて金生町と言うでしょう。

銭がザクザクという訳です。

そして乾物屋がいっぱいありました。

乾物を出すから道路が狭い。

そういう鹿児島の城下町の一帯は、鹿児島弁で

「銭(ぜん)なざっくざっく金生町道ゃ狭(せ)べ狭(せ)べ納屋ん馬場」

と、こんな感じで全部紹介できるんですね。