ご講師:祖父江 佳乃さん(節談説教、真宗大谷派有隣寺住職)
昭和22年、私が生まれる20年前、私の叔母に当たる女の子が亡くなりました。
名前は佳子といいます。
戦後間もなくで、ろくに栄養も摂れなかった当時、その子は髄膜炎という病にかかり、わずか4歳でお浄土に帰っていったということです。
その子の両親が私の祖父母にあたります。
祖父母は、その後も死産などで立て続けに3人もの子たちに先立たれてしまいました。
そして、佳子の死より20年後に生を受けたのが私、祖父江佳乃でございます。
祖父母は、子どもの死に遭った経験から、特に私を可愛がってくれました。
風邪をひいたら大変だからと、雪の降る日には外出禁止になったり、転んだら危ないからと、自転車や三輪車も買ってもらえませんでした。
本当に大事に大事に育ててもらっていたんですが、一つ気になることがありました。
晴れ着を着たり、初めて小学校のランドセルを背負ったとき、みんな写真撮影をするんですが、そのとき、晴れ姿の私を見ておばあちゃんが、「佳子が生きとったら」と言って、泣いてしまうんです。
また、お同行のみなさんにもいつも「佳乃ちゃんは佳子ちゃんの代わりだから、お利口にしてなきゃいけないよ。
あなたは、風邪をひいたらいけないんだよ。
あんたが風邪をひいたら、おくりさん(名古屋弁でお寺の坊守さん)も、ごえんさん(住職)も悲しむからね。
あんたは、代わりだからね」と言われていました。
「代わり」と言われる度に、何か嫌な気持になりました。
小学1年生のとき、自分の名前を漢字で書く内容の授業がありました。
それで、佳乃の「乃」の字は、4歳で亡くなった佳子の「子」の字の横棒を縦に変えただけだと気付いてしまったんです。
そのことが、いつも佳子の代わりだと言われる度に湧いてくる灰色の嫌な気持とピタってくっついちゃったんです。
「やっぱり代わりだったんだ」と、すごく悲しくなりました。
私はその悲しい気持をお寺に帰って誰にも言うことが出来ませんでした。
私が佳子という名前を出したら、おばあちゃんがポロボロ泣いてしまうし、嫌な空気に包まれてしまうのが分かっていたからなんです。
それで、そのことが言えずに時間が経って、小学校5年生の始業式のときでした。
4年生の冬休みの宿題で描いた絵が、名古屋市長賞というのを頂いて表彰されたんです。
もう嬉しくて、賞状を抱えてお寺に帰りました。
そこで、「ねえ、見て見て」と大きな声で言いました。
そのとき、お寺では女人講を開いていて、婦人会のみなさんが褒めてくださったんです。
ところが、おばあちゃんはその賞状を見て、またポロボロと涙をこぼして「佳子も絵が上手だったわ」と言ったんです。
そうしたらガラッと空気が変わりました。
絵を描いて賞状を頂くほどにお褒めをいただいたのは、私こと佳乃なのに、「佳子ちゃんも絵が上手だったわね」って、佳子佳子佳子――。
佳子の話に変わっていったんです。
もう情けなくて悲しくなって、どうしていいか分からなくなって、私はそこを飛び出していきました。
自転車を持っていませんでしたから、トボトボとお寺の周りを一周して、山門の所で膝を抱えながら、「私は誰なんだろう」って、ボロボロ泣いていました。