「ご用意ができました」と、庵(いおり)のうちへ雑人に一人がいう。
「おう」と、綽空は立つ。
玉日も、庵を出る。
その日二人の装(よそ)粧(お)いは、晴の席へ臨むような盛装であった。
わけても、新婦は、まだ華(か)燭(しょく)のかがやきの褪(あ)せない金色(こんじき)の釵(さい)子(し)を黒髪に簪(さ)し、五(いつ)つ衣(ぎぬ)のたもとは、薫々(くん)と高貴なとめ木(き)の香りを歩むたびにうごかすのだった。
「…………」
声でなく、眼で――お先に――というように良人へ羞(しゅう)恥(ち)の襟あしを見せて、輦(くるま)にのる。
綽空は、その後から、新妻とならんだ。
絢爛をきわめた新調の糸毛(いとげの)輦(くるま)である。
それへ、膝をつめあわせて共に乗った盛装の若い男女は、どんな絵の具や金泥(きんでい)を盛りあげても描きあらわせないほど華麗であった。
随身の牛飼や雑人たちも、うっかり見恍(みと)れてしまうのである。
「進(や)れよ……」綽空が、輦(くるま)の上からいう。
「あっ」と、牛飼は、手綱で牛を打つ。
八(や)瀬(せ)牛(うし)の真っ黒な毛なみの背がもりあがった。
巨(おお)きくて、鈍々(どんどん)と、しかし決して後(あと)へは退かない牛の脚である。
――それが首を突きだして巨躯をまわすと、きりきりと、軌(わだち)は土を掘って林の道を揺るぎ出した。
「どう参りますか」わきに添ってゆく侍がいう。
綽空は、それに答えて、
「――野川の御所から白河泉殿を西へ――二条末(すえ)をのぼって、鳥居大(おお)路(じ)へ出る」
「ちと、廻り道ではございませぬか」
「かまわぬ、――鳥居大路からは十(じゅう)禅(ぜん)師(じ)の辻へ。そして祇(ぎ)園(おん)の御(み)社(やしろ)を横に、吉水まで。悠々とやろうぞ」
「かしこまりました」
――だが、野川の御所の曲がりから、もうその糸毛(いとげの)輦(くるま)は人の眼を
よび集めた。
加茂川原の向う側からさえ童(わらべ)や凡下(ぼんげ)が、人だかりを見て、ざぶざぶと水を越えて駈けてくるのだった。
わけてもこの辺りには、吉田殿、近(この)衛(え)殿、鷹(たか)司(つかさ)殿などの別荘が多いのである。
窓や、門や、路傍は、たちまちのうちに奇異な物へ瞠(みは)る無数の眼が光っている。
「なんじゃ?」
「なにが通るのじゃ?」河原で衣(きぬ)を晒(さら)していた女たちは、濡れた手で人ごみをかきわけた。
脚と脚のあいだで、野良犬が吠えたてるし、嬰児(あかご)が泣くし、物々しいことである。
「やあ、美しい上臈(じょうろう)が、若い法師と、添(そい)乗(の)りして、行くぞや」
「怪(け)ったいな!」
「知らんかい、あれや、岡崎の松林に住んでいる坊(ぼん)じゃげな」
「では、綽空法師かよ」
「九条殿の法(ほう)師(し)聟(むこ)じゃ」
「なんじゃ、法師聟が通ると? ……。
ほ、それでは、あれが、嫁(よめ)御(ご)寮(りょう)か」
さても、天下の大変でも往来に起ったように、町の凡下たちは、人にも見よと手を振ったり指をさして騒ぐし、通る先々の別荘や寺院の門前には、自失したような眼と、あきれたような口が、物も得いわず立ち並んでいた。