「社会(せけん)の害毒に? ――」と天城四郎は、弁円の思想の浅薄さをあざ笑うように反問して、
「そういうと、いかにも、この社会(せけん)というものが清浄(きれい)に聞えるが、どこにそんな清い社会(せけん)があったか。
藤原、平家、源氏、いつの治世でも、俗吏は醜悪の歴史を繰り返し、人民は、狡(ずる)く、あくどく、自己のことばかりで生きている。それが社会(せけん)だ」
「そうばかりはいえぬ。それでは、俺たちは、何で、修験道に精進する張合いがあろう。そういう社会(せけん)の中にも、真実を探し、浄化の功(く)力(りき)を信じればこそ、吾々は、身を潔斎して、生きている」
「ははは。百年河(か)清(せい)を待つという奴だ。なんで、この社会(よのなか)が、そんな釈(しゃ)迦(か)や聖者のいうとおりになるものか。
第一に、聖者めかしている奴からして、眉唾者(まゆつばもの)が多いじゃないか。だが、おれはその眉唾者とも妥(だ)協(きょう)するよ、だから、綽空も、生かしておかなければ、商売にならない」
「いや、俺の立場としては、断じて、生かして置くことはゆるされない。見ていてくれ、今にきっと、喉(のど)笛(ぶえ)をかっ切られた綽空の空(むく)骸(ろ)が、往来に曝される日がやってくるから」
おのおの、信じることは譲らないのだ。
天城四郎にも信念があり、弁円にも弁円の信念がある。
(案外、話せない奴だ)酒の上で、いちど共鳴はしたけれど、心の底をたたき合ってみて、二人は、お互いに軽蔑(けいべつ)してしまった。
「また、縁があったら、どこかで会おう」
ぶつかり物は離れ物――ということばの通りに、二人は、あっさり別れてしまった。
――年は暮れて、元久(げんきゅう)元年になる。
岡崎に愛の巣では、若い妻と、法悦のうちにある綽空とが、初めての正月を迎えた。
――玉日も、もう、草庵の水仕事にも馴れて。
七日には、二人して、粟(あわ)田(た)口(くち)の青(しょう)蓮院(れんいん)の僧正へ、賀詞をのべに行った。
尋(じん)有(ゆう)も、いよいよ健やかな勉学期に入っている。
ただ思いだされるのは、養父の範綱――観真となって、老後を、孤寂のうちに養っていたあの養父(ちち)が――もうこの時には、世にいなかったことである。
綽空や尋有が、こういう欣びの法境に到らないうちに、夙(と)く他界の人になっていた。
(養父(ちち)がいたら、どんなに……)という良人の述懐を、若い妻は、何度も聞くことであった。
二月になると、良人は、
「近くへ、旅に出たいが」と、妻へいった。
――淋しくはないか、と若い妻を宥(いた)わり思うのであった。
元より沙(しゃ)弥(み)の妻である。
玉日は、顔を振って、ほほ笑んだ。
そして、良人の立つ朝は、まめやかに、旅(りょ)衣(い)をととのえて、門口へ出て、笠を渡した。
「……二十日ほどで帰ります」
どこへともいわずに綽空は、岡崎の松林から出てゆくのである。
玉日は、良人のうしろ姿へ、掌(て)を合せて、
「ご無事に」と仏(ぶつ)陀(だ)へ祈った。
――虫が知らすか、別れともない気がして。
*「百年河清を待つ(ひゃくねんかせいをまつ)」=河清は、中国の黄河が、清くすむこと。常に濁っている黄河の水の澄むのを百年もかかって待つ意で、いつまで待っていても実現のみこみのないことをいう。