「心蓮が?」
――これは法然も他の弟子たちにも意外らしいことであった。
なぜならば、もう三年も前になる。
その心蓮は、この吉水禅房で、ひたすら修行していたが、ある時、師の法然に向って、突然、お暇を下さいといい出して、この門から出て行った男である。
理由というのは、
(こうして、繁華な都の中に、大勢して念仏門の道場をかまえ、夜も朝も、雑多な、信徒や、様々な心をもった同門の人々と起き臥しを共にしていたのでは、どうも、ほんとに心を澄まして、一念の称名(しょうみょう)に入ることができません。こういう修行のしかたは私の考えでは、誤っていると思います。――で、自分だけは、まったく、世俗の塵(ちり)を絶った遠い田舎(いなか)へ参って、人間の騒音から離れ、清浄孤寂な生活をまもって、一心三昧(さんまい)に入って、道を得たいとぞんじます、どうか、私を破門して下さいまし)
そういって、心蓮はここを出て行ったのである。
――それが、忽然(こつねん)と、またこの門へ帰ってきたというのだ。
人々は、法然が、それに対してなんというであろうかと、推し測るように顔を見ていた。
――と、法然は、
「通しなさい」そういってから、すぐ、
「疲れておるようであったら、休ませて、粥(かゆ)など与え、その後でもよいぞよ」
しかし、心蓮は、すぐ導かれてそこへ入ってきた。
「お……」
なつかしい旧友。
久しく仰ぎ見ない師の房。
この柱、この天井、また庭の樹々――
心蓮は坐ると、瞼(まぶた)を赤くしてしまった。
何かいおうとしたが手をつかえると、それなりしばらく黙ってしまった。
「心蓮か」
「はい……戻って参りました……。面目もございませぬ」
「よう戻ってこられた」
「穴にでも入りたい心地がいたしますが……。ほかに、心蓮の行くところはございませぬ。やはり、この吉水禅房のほかに、往生の床(ゆか)はないと、こんどはよく分って戻って参りました」
「よい修行をされたとみえる。この三年、お汝(こと)はどこにおられたぞよ」
「ずっと、都遠く離れて、笠(かさ)置(ぎ)の山里のさる豪家の持っている山の中に、一庵を借りておりました。一日一度、食物を運んでもらうほか、人の顔も見ず、夜も昼も、念仏に送って、まったく世間の音から離れ、草が伸び、木の葉が散るのを見て、月日を知るような生活をしておりました」
「そして、何を得たかの」
「何も得ません。初めの半年ぐらいは、これこそ、念仏行者の道ぞと、澄みきった心のつもりで、行い澄ましておりました、一年経つと、なにかこう自分が空(うつ)虚(ろ)のような不安を感じて参りました、二年目には、心がみだれ出し、自然の中の寂莫(じゃくまく)さが常に心をおびやかしてきました。――一念無想に念仏をとなえているつもりなのが明けても暮れても、都のことを考え出してきたのです。眼をとじれば、京の灯が見え、耳をふさげば人間の恋しい声が聞えてくる。そして、夢にまで、人間と交わったり、都へ帰った夢ばかり見るのです。……堪らないほど、私は、口がききたくなりました。――旧友と、世間の人と、信徒たちと。――すべて初めに厭(いと)って逃げてきた者がやたら無(む)性(しょう)に慕わしくなり、矢もたても無くなったので、実は、お恥かしい限りですが、夜逃げのように、笠置の奥から舞い戻ってきたのでございまする」
心蓮の正直な体験の告白を、一同は、興味ふかく、また教えられるところもあって、和(なご)やかに聞き入っていた。
法然は、もうすっかり、常の柔和な眼ざしに返っていて、
「それが分ったのはなによりじゃった。したが、三年はちと長うあったの……」
と、微笑すらたたえて、さて、侍坐の一同をかえりみて、
「今朝はまことに、おもとたちにとって、尊い朝でおざったの。法然にとっても、うれしい朝――」
と、くりかえしていった。