歴史も新たな事実の発見によって次々と書き換えられている

私の高校時代、社会科は2年生・3年生で地理・日本史・世界史の3科目の中から、任意に2科目を選択するという方式でした。

そこで、大学の受験科目の一つに日本史を考えていたことから、2年生の時は世界史を選び、3年生の時に日本史を選びました。

地理を選ばなかったのは、せっかく覚えても、いつの間にかその国や地域の産業、特産物、あるいは国名さえ変わってしまうのに対して、歴史は子どもの頃から好きな(得意)科目であったということもありますが、「過去の出来事だから一度覚えれば殆ど変わることはない」と思ったのが、選んだ理由の一つでした。

ところが、最近、新たな発見によって、以前学校で習ったことがいろいろと書き換えらているという事実を知り、驚くことがよくあります。

例えば、「日本で最古の貨幣は、和銅元年(708)に発行された「和同開珎(わどうかいちん)」だと習いました。

また、発行年については「この年、武蔵国秩父で発見された和銅(自然銅)が元明天皇に献上され、これを祝って年号が慶運から和銅に改められ、平城遷都(710年)と時を同じくして和同開珎が発行された」という和銅元年説と、『日本書紀』の683年に「今より以降、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔があることから、天武天皇の時代に作られたという説があり、未だ決着をみていないものの、「和同開珎は日本最古の通貨」だと記憶していました。

ところが、現在の教科書には「天武天皇のころに鋳造した富本銭(ふほんせん)に続けて、唐にならい和同開珎を鋳造した」と記載されています。

さらに「富本銭は、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土したもので、この貨幣は、和同開珎より早い683年に天武天皇が銅銭を鋳造させたという『日本書紀』の記事にあたることが明らかになっている」という記述もあります。

このことから、私が習った頃に、和同開珎が鋳造された年として候補の一つにあげられていた683年に発行されたのは、和同開珎ではなく実は富本銭であったということが知られます。

この富本銭が日本初の貨幣だったとする新説が生まれたのは、平成9年(1997)から平成13年(2001)にかけて行われた飛鳥池遺跡の発掘調査からでした。

この遺跡は、律令国家の礎を築いた天武天皇の飛鳥浄御原宮の北東500メートルに位置し、日本最古の本格的寺院である飛鳥寺に南接した谷筋にあります。

調査の結果、この遺跡は7世紀後半から8世紀初期にかけて稼働した工房跡であることがわかり、銅・鉄・ガラス・漆などを素材に、さまざまな製品を造っていたことが明らかになりました。

そして、この工房跡にあった廃棄物の層から、多くの富本銭が出土しました。

実は、富本銭は以前から他の遺跡でも出土していたので、その存在自体はよく知られていたのですが、奈良時代に造られたまじない用の銭であるとか、鋳造工法が江戸時代の寛永通宝と酷似していたことから、江戸時代のおもちゃではないかと推測されていました。

ところが、飛鳥池遺跡から富本銭の鋳型や鋳造に用いた坩堝(るつぼ)や作業台などが出土したことによって、『日本書紀』の天武天皇の詔にある銅銭とは、和同開珎のことではなく、富本銭のことだったという事実が分かったのです。

また、「日本最大の古墳は仁徳天皇陵」だと習ったのですが、2006年度以降は「大仙陵古墳」という名称にかわっています。

実は、この巨大な古墳に埋葬されているのが仁徳天皇であると比定されたのは、江戸時代です。

本居宣長や蒲生君平などの学者たちが、多くの古墳について地元の伝承や史料などを調べ、現地調査を行って被葬者を特定して行ったのですが、その結果を明治時代以降も宮内庁が受け継ぎ、そのまま現代に至っているという訳です。

ところが、古墳が築かれた年代の調査などが行われるうちに、明治時代に比定された被葬者の中には、かなり間違いがあることが分かってきました。

たとえば、その一つが仁徳天皇陵とされた古墳で、古墳の形状や円筒埴輪の形式などから考察した結果、仁徳天皇が存在した年代と、古墳の築造時期が合わないことが明らかになりました。

仁徳天皇は313年〜399年とされているのに対して、古墳の築造年代は5世紀と推定されます。

古墳は、すべて宮内庁が「皇室財産である」として発掘を許可していないため、誰が埋葬されているのか特定することができません。

宮内庁は、依然として仁徳天皇陵と比定していますが、現行の教科書は、事実を踏まえて「仁徳天皇陵」という表記は消し、他の古墳の呼称方法に併せて現地名を用い、大仙陵古墳として、被葬者についても「5世紀のヤマト政権の大王の墓と考えられる」としています。

高校の頃、「地理は覚えてもあれこれ変わるが、歴史は変わらない」と思っていたのは単なる錯覚で、歴史も新たな事実の発見によって次々と書き換えられているようです。

ところで、今年は「戦後70年」ということで、この夏、戦後50年目と60年目に出された首相談話が、70年目の今年出されるとしたらどのような内容になるのか、ということに注目が集まっています。

これについて、既に近隣の国からは「歴史認識」に関する注文があいついで出されています。

端的には、日本はそれぞれの国の歴史において語られていることを踏襲した談話を求められているのです。

この場合、日本で教えている歴史の内容と近隣諸国で教えている歴史の内容が全く同じであれば問題はないのですが、周知の通りその内容はそれぞれ大きく異なっています。

次回は、この「歴史認識」につて、なぜ決定的な違いが生じているのか、その理由について考えてみたいと思っています。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。