『自分をはげます言葉を持とう』(中期)

あなたは、心の中に「座右の銘」、つまり「常に自分の心に留めておいて戒めや励ましとする言葉」を持っていますか。

「座右」とは、皇帝が自分の右側の席に、信頼できる補佐役を座らせたことから、重要な席のことを指し、「銘」とは、古人が鐘や器などの器物に刻む文体の一種で、自分自身の戒めや他人を賞賛する目的で刻んだものです。

このことから、「座右の銘」とは、古人が席の右側に置いて自らの言行を戒める言葉という意味だったのですが、後にはそれらを傍らに置いて自らを励ましたり、戒めたりする格言となったとされています。

なお、「格言」が「戒めや教訓などを簡潔に表した言葉」であるのに対して、「座右の銘」は「常に意識して、自分の戒めや励みとする格言」として使われているようです。

一般に、苦しい時や悲しい時、勇気がほしい時などに、自分を励ましたり、迷っている自分の背中を押したりしてくれる言葉として、人は自分の「座右の銘」を思い起すものです。

この「座右の銘」の多くは、人生の先達ともいえる偉人の言葉が多いようです。

例えば、

「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」

これは、浄土真宗の開祖・親鸞聖人が9歳で出家得度をされる際、「今夜はもう遅いから明日…」と言われ、その時に詠まれた和歌だと伝えられています。

「桜は明日もまだ美しく咲いているだろうと安心していると、その夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。人生も同じで、明日はどうなってしまうか分からないから、今夜のうちに得度の儀をお願いします」

ということですが、人生の無常を知ると共に、いろんなことをしばしば先送りにしてしまうことの多い私たちにとって、今できることをきちんと成し遂げていくことの大切さを教えて頂ける言葉です。

「それ恕か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ」

これは、弟子の子貢が孔子に「人として一生涯貫き通すべき一語があれば教えてください」と尋ねたのに対して答えた言葉です。

「それは恕(相手の身になって思い・語り・行動すること)ではないか。自分が(言われたりされたりして)嫌なことは他人に対してしてはならない」

言い換えると「思いやりの心」ということでしょうか。

西洋的な考え方は、「自分のしてほしいことを他の人にもしてあげなさい」といった感じです。

そのため、困っている人などに対して、非常に積極的な援助活動が見られます。

それに対してこの孔子の言葉は、ともすれば消極的な印象を受けますが、決してそうではありません。

この「恕」は、せいいっぱいの心で相手の心に寄り添いながら、相手の心に尋ねていくというあり方です。

例えば、お酒の大好きな人が、「このお酒はとても美味しいからどうぞ」と勧めてくださることがあります。

自分の好きなものは他の人もきっと美味しいに違いないということで熱心に勧めて下さるのですが、お酒の苦手な人にとって、美味しいと思うものを勧めて下さる気持ちは有り難いものの、正直ありがた迷惑ということもあったりします。

「我以外我師也」

これは、作家の吉川英二がその作品(「新書太閤記」「宮本武蔵」)の中で用いていることで有名で、「自分以外はすべて自分の先生である」ということですから、人は心がけ次第で、自分以外の人たち、あるいはすべてのものから何かしら学ぶことができるということを教えられる言葉です。

親鸞聖人は、その著述の中で「名利の大山(たいせん)に迷惑して…」と悲歎しておられます。

私たちは本質的に「名誉や利得の大きな道に迷い惑う」存在であることを吐露された言葉ですが、周囲の人たちから「先生」と呼ばれると、いつの間にか自分が偉くなったように錯覚してしまうことがあります。

吉川英二の言葉は、気がつけば「先生」になってしまう自分を、常に学ぶ側に引き戻してくれる気がします。

ところで、仏教では人間を「機」という言葉で表現します。

人間とは本来、真実を求める心を持った存在なのですが、そのことが「機微」「機宜」「機関」という三つの言葉で教えられています。

私たちの心の中には、迷いによって覆い隠されてはいるものの、自分でも意識しないくらい深いところに、微かではあるが真実を求める心があります。

これを「機微」といいます。

同時に、私に先立って同じ道を歩んでくださった人の言葉に頷き、感動する心を持っています。

これは、人の言葉を聞いて感動するというよりも、感動してみてふと気付いたら、そうだったと頷いている自分に気付くというあり方です。

これを「機宜」といいます。

そして、気付いた時には、それは必ず歩みになることから「機関」とといます。

機関とは、エネルギーやエンジンのことです。

つまり歩みになるということで、たとえ歩むまいと思っても、頷いた事実につき動かされて歩まされていくということがあるのです。

このような意味では、人間は自分でも気付かないくらい心の深いところに、微かではあるものの真実を求める心を持った存在であり、真実に出遇った時には頷くと同時に、力強く歩み始める存在だと言えます。

「南無阿弥陀仏」が、この地上で初めてお釈迦さまが口にされて以来、その縁に出遇った無数の人びとの生きる勇気となり、その歩みを支え励まし続けてきた理由も、まさにここにあるのだと言えます。