8月のお盆明けの土日、長崎のハウステンボスに隣接するホテルで開催された、浄土真宗本願寺派の九州地区保育研修長崎大会に参加してきました。
日頃は、いろいろなことに追われているせいか、京都(西本願寺)以外の県外に行く機会があまりないこともあり、ハウステンボス方面に行くのは初めてのことでした。
なお、今回は研修会受講が目的だったこともあり、ハウステンボスの中には一切入らず、日程が終わり次第すぐに帰宅しました。
研修大会には、浄土真宗本願寺派の寺院を基盤とする保育園・幼稚園・認定こども園の理事長・園長をはじめ、園に勤務する職員(保育士・幼稚園教諭・保育教諭、栄養士、他)400名余りが参加しました。
開会式、基調講演に続いてパネルディスカッションがあったのですが、その中で「お寺の園ということもあり、クリスマスはタブーになっている」といったことが話題になりました。
このことについて、パネリストの一人の方が「学生時代は友だちとクリスマスをしていたのですが、お寺の園に勤務するようになってからは、園内でクリスマスについての話題はしないようになりました。
また、年末に子どもたちがクリスマスという言葉を口にすると、唇に指をあてて“しーっ”と言うようになりました(笑)」と述べられました。
その後、このことについて、参加者に対して一定の方向性を示唆するような結論が示されることを期待したのですが、結論めいたことは何ら示されないまま違う方向に話題が移ってしまいました。
この時、以前真宗保育のセミナーで聞いた、次のような話が思い出されました。
それは、ある公立の幼稚園がクリスマス会を計画したところ、近隣のキリスト教系の幼稚園から「本来の趣旨からはずれた形でクリスマスをするのは控えてほしい」という要望があったそうです。
周知のように、クリスマスとはイエス・キリストの生誕を祝うキリスト教信者にとっては、聖なる祭りです。
ところが、世間一般で行われているクリスマスは、その本質である宗教的な面がほぼ欠落し、プレゼント交換をしたり食事やパーティーをしたりするなど、現象面だけが商業ペースによって形作られているとの感を否めません。
したがって、名称はクリスマスであっても、キリスト教信者の方がたの目には「似て非なるもの」と映っているのではないかと思われます。
そこで、「宗教的な意義を排除して、単にケーキを食べたりプレゼント交換をしたりするお楽しみ会的な催しをクリスマスという名称で行ってもらっては、子どもたちに嘘を教えることになるので控えてほしい」という要望は、至極当然のものと言えます。
そうすると、パネルディスカッションでは「親鸞聖人の生き方に学び 生かされているいのちに目覚め ともに育ち合う」ことを保育の理念に掲げる浄土真宗本願寺派保育連盟の加盟園において、「はたして、どこにクリスマスを行うことの必然性を見出せるのか」ということを問うべきだったのではないかと思います。
この場合、クリスマスというのは、キリスト教本来のあり方のことで、世間一般で言われている擬似クリスマスについては論外です。
これは立場を置き換えると良いのですが、例えばキリスト教系の園が、4月8日に「花まつり」の名称で行事を行っているとします。
ただし、その中ではお釈迦さまの誕生を祝うという仏教本来のあり方は全て排除され、ケーキを食べたり甘茶を飲んだり、プレゼント交換がなされたりしているだけの内容であったとしたらどうでしょうか。
浄土真宗本願寺派保育連盟の加盟園だけでなく、仏教系の園に勤務する人たちの大半がそのことに違和感を覚えたり、中には「子どもたちに嘘を教えることになるのではないか」と憤ったりする人もいたりするのではないでしょうか。
浄土真宗本願寺派保育連盟の加盟園において、それでも子どもたちに「園でクリスマスを…」と希望する人がいるとすれば、その人はそこに「せずにはおれないもの」を見出しているかどうかを明らかにすることが大切だと言えます。
もしそれが見出せなければ、それは単なる個人的な願望に過ぎず、自分の趣味を子どもたちに押し付けることになるのではないかという疑念を覚えざるを得ません。
浄土真宗本願寺派保育連盟に加盟する大半の園では、4月8日にお釈迦さまの誕生を祝う「花まつり(灌仏会)」、5月21日には宗祖親鸞聖人の誕生を祝う「降誕会(ごうたんえ)」の行事を行っていることと思われます。
これらの行事についても「なぜ既に亡くなっている人の誕生を祝うのか」ということが自らの内に明らかにならないと、「花まつり」はお釈迦さまの童形像に甘茶をかけたり飲んだりするだけの行事に終わり、「降誕会」も年間行事の一つとして消化されるだけのことに終わってしまうかもしれません。
私たちが、誰かの誕生を祝うのはいったいなぜなのでしょうか。
そのことの意義について自らに問い、その意味をきちんと頷くことが、この話題の根底に大きな課題として横たわっているのではないかと思ったことでした。