親鸞 2016年9月8日

「――ああっ、おれは過(あやま)っていた」

ぐわらりと、大地に地ひびきさせて、弁円は坐っていた。

両手で顔を蔽(おお)うてさけんだ。

「……不覚不覚、一生の不覚だった。何十年のあいだ、おん身を敵(かたき)と見ていたのは、この弁円の心に棲んでいた魔のしわざ。……ああ返らぬ年月を仇に送った、四十年を空しく迷路にさまよってきた」

 憤怒の眼に血ばしっていたものは、潸然(さんぜん)と下る涙に変った。

 慈悲温光のなごやかな眸を、じっとそれへ向けていた親鸞は、

「どうなされた弁円どの、おん身が佐竹侯に迎えられ、修験の司としてこの地方へ下られていると聞き、いつかは折を得て、ゆるりと話したいと思うていたが、つい機縁ものう打ち過ぎてあった。……だが、ようぞござった、幼顔はお互いに幾歳になっても忘れぬもの、なつかしや……ご無事で在(おわ)したの」

そういう彼の言葉には、少しも策とか上手とかいうものは認められなかった。

心からいう言葉だった。

弁円のあれほどな意気込みを挫(くじ)いたものもその親鸞の素裸な態度にほかならない。

 弁円は、愚に返った老人のように――また、稚に返った成人のように――両手で顔をかくして泣き入りながら、

「お覚えがあってか――その昔は成田兵衛の遺子(わすれがたみ)――寿童丸といわれた者。アア、消え入りたい心地がする。――そもそもおん身とおれとは、なんの宿縁か、まだ上人が日野の里で、十八公麿と仰せられていたころからの学びの友でありながら――すでに、あのころから、おれは、おん身が嫌いだった、虫が好かなかった、おん身の学才が小癪(こしゃく)にさわっていた、そして事ごとに、おん身を苦しめることのみ考えていた」

「そうだ……もうあれは四十年のむかしになる、しかし、瞼をふさがばまた、きのうのような心地もする」

「三ツ子のたましいは百までもというが、その後、おれは父を亡(うしな)い、町にさまよい、叡山を追われ、家はなく、ただ知るのは、世間の人の冷たさのみで……おれの心はひねくれるばかりだった。――そのころすでにおん身は、範宴少納言といわれ、北嶺(ほくれい)の麒麟児の聞えたかく、若くして、聖光院の門跡となってゆくのを見、ねじけ者のおれは、いよいよ、陰に陽に、おん身を呪詛しはじめた」

「……ウム」

親鸞はうなずいてみせ、

「わしは、なんとも思うてはいない、むしろおん身のために、励まされたことがあろうとも」

「――いや、その蔭は、むしろおれのほうが受けている。それを今、はっきりと気がついた。常におん身を呪詛しつつも常におん身を仮の敵と見、おん身の進んでゆく道を、自分も負けまいという目標にして励んでいた。今思えば、おん身が他力門の新の聖者であったればこそ、ねじけ者、怠け者のこの弁円も、とにかく孜々として鈍才に鞭打ち、聖護院の御内から少しは頭角を出して、播磨公弁円といわれるまでになったのだ。……その余のことすべて、今となっては、詫言(わびごと)もない、五十になって、弁円は初めて、おん身を知り、自分の愚鈍を知り申した。――迷いの夢がさめたとは、このことでござろう。ゆるされい。親鸞どの、このとおり手をつかえ……弁円が初めて、おん身の足もとにこう手をつかえて、詫び入るのだ。――どうか、今日までの大罪をゆるしてくれ」

 大地へ顔を伏せて、弁円は嗚咽していった。

*「三ツ子のたましい【魂】は百(ひゃく)まで」=幼いときの性質は、老人になっても変わらないということわざ。