「さ、お吉さん……はやく家へもどったがいい」
和介も、他の者も、ほっとしながら、彼女をいたわって、着物の土など払ってやった。
「お上人様も、いつか仰っしゃった。念仏の功力(くりき)は、寺へ来ていうからよいというものじゃない、剃髪して僧侶になったから、念仏の功力が増すわけでもない。在家の衆も、心さえ、そこにあれば、どこで申そうと、仏の御加護はあるものじゃと……。のう、お吉さん、ご亭主が念仏ぎらいなら、ご亭主の眼や耳にふれない限りでいうたがよい。……さ、また晩に、文句をつけられないように、早く帰って、酒など買っておかっしゃれ」
「ご心配をかけました」
お吉はしお悄々(しおしお)と、そこから立ち去った。
河和田の家は、遠かった。
田の畦(あぜ)や、森の蔭を、俯向いて――自分の一足一足を見つめながら歩いてゆく。
「ああ、どうして、私はこう……」
つい身の不運が、涙をさそってくる、歩む足もとへ、涙がこぼれて、道の草も枯れるかと思う。
――嫁にきたころは、良人の平次郎も、あんな気荒な人ではなかった。
信心こそ持たない人だったが職人として腕はあるし、気だてもよい良人だった。
それが、二人の仲のできた一つぶだねの男の子が、やっと、笑ったり這いだしたりする可愛い年ごろに、ふと病みついてしまった。
――その時またちょうど、村へ来ていた修験者が、病気ならわしにまかせろ、きっと癒(なお)してやるというので、加持祈祷(かじきとう)に、夫婦も共に、精を打ちこんで、病児の恢復を祈っていたところ、病気は日ましに悪くなって、とうとう死んでしまった。
それからである――平次郎の気が急に変ってしまったのは。
(神も、仏も、あるものか。あいつらあ、神とか仏とか、ありもしねえ嘘ッぱちをいい触らして、飯のたねに、食い歩く山師だ)
仏壇も、神棚も、平次郎は川へ運んで行って流してしまった。
それからというものは、急に、酒は飲むし、飲めば酒乱になる。
そして、仕事はろくにせず、すこし余裕(ゆとり)があれば、博奕(ばくち)、女狂い、喧嘩、手がつけられない人間になった。
お吉は、良人の気持を、無理もないと思って、初めは素直にしていたが、元より貧しい職人の世帯である。
折にふれて何かいうと、平次郎は、ふた言めには、
(出て行けっ)であった。
彼女の体には、生傷がたえなかった。
けれど、
(今に――今に、眼がさめる日も……)
と、お吉は、貞節を守りとおしてきた。
なんと怒られても、疑われても、彼女は、心のうちに、じっと涙をのんできた。
それも久しい年月である。
いちど毒をあおった良人は、このごろは、心までその毒にまわされたように、直るどころか、いよいよ荒(すさ)んでゆくばかりに見える。
他人の家庭を見ると、お吉はうらやましかった。
誰も皆、生々と、楽しげに働いている、また、その人たちの生活を見ていると、働く暇には皆、近くの宮村にある上人の庵室へ通って、一体になって、念仏をとなえていることがわかった。
ふと、彼女の真っ暗な胸へも――その念仏の一声がながれ込んで、微(かす)かなる光のように思い初めた。
けれど、良人は、神仏を仇敵(かたき)のように呪っている人である。
お吉は、平次郎の眼をぬすんでは、宮村の上人の庵室へ行って――それも庵室の中へは入らないで――垣の外へ佇んで中から洩れる法話の声や念仏に耳をすましていたのであった。