良人の酔いは、もう充分の度を超えているし、あしたの仕事に出る体のためにも気づかわれたので、
「お酒はもうございませぬ、それよりも、もうお寝みなさいませ」
臥床(ふしど)へ夜具をしきかけると、その顔をかすめて、いきなり一枚の小皿が飛んできた。
小皿は、幸に彼女の顔へはあたらなかったが、うしろの壁へぶつかって、烈しい音と共に、(こ)になって砕けた。
「この嘘つきめ」
と、平次郎は険しい顔を向けてわめいた。
お吉は、何を怒られたのかちょっとわからなかった。
その、呆っ気にとられたような顔がまた、酒乱の良人の気持をさらに焦(いら)だてたものらしく、
「たった今、いくらでも酒は買ってあるから安心して飲めと吐(ぬ)かしやがって、もう無(ね)えとは、なんのいい草だ」
突っ立ってくると、何を云いわけする間もなかった。
もっと、こんな場合、云いわけをすることは、よけいに良人の兇暴癖を募らせるものであることもお吉はよく知っている。
「畜生っ」
黒髪をつかんで、平次郎は妻の体を前へぐっと引いた。
そして、左右に振り廻したと思うと、烈しく、平手で妻の横顔をなぐった。
「……あっ、か、かんにんして下さい」
お吉は、それだけしかいわなかった。
平次郎は、睨(ね)めすえて、
「すべためッ」
自身も息がきれたのであろう、肩で大きく息を吐(つ)いて、しばらく、拳をかためていたが、酔いにたえかねたものとみえ、彼女の敷きかけている蒲団のうえに斃(たお)れると、そのまま、野獣のように、大きな鼾(いびき)をかいて眠ってしまった。
「……もし、枕を、枕を」
お吉は、酒呑童子(しゅてんどうじ)のようになって寝入った良人を、怖々(こわごわ)とのぞいて、そっと、その顔を木枕へのせてやり、足の上へ夜の具(もの)をかけて、ほっと自分に回(かえ)った。
それから、勝手元の片づけものを済まし、それが片づくと、土間の機織台の前に腰をかけた。
松の根を焚いて、お吉は、それから夜のふけるまで、あしたの良人の酒代を稼ぐのであった。
自分の体に生傷をこしらえたり、苛責の毒舌をあびせる酒を、寝ずに働いて、求めなければならなかった。
――だが、そうした不合理な苦役も、しんしんと夜が更けて、涙もわすれ、愚痴もわすれ、心に念仏を置いて、一念に筬(おさ)をうごかしていると、その筬の音は、いつか自分のかなしみを慰める音楽のように、一つの諧調を持って、苦役も苦役とは思わなくなってしまう。
「そうだ……こんな時に」
彼女は、そっと奥をのぞいた。
良人の鼾を聞きすまして、彼女は、肌着の奥から何か大事そうに取り出した。
――それはいつか稲田の親鸞上人が、彼女のために書いてくれた六文字の名号であった。
お吉はそれを、良人の眼をしのんで、小さな軸に仕立て、自分の心のまもりとして常に肌に秘めていた。
ふと、生きる力を失った時、ただ独りで泣きじゃくりたいような時――お吉は名号を取り出して、それに掌(て)をあわせる。
すると、親鸞の慈悲にみちあふれた姿に会う心地がしてくる……。
今も、彼女はそれを思い出したのである。
すると、かたと、奥の暗い中で物音がした。
ハッと心の騒ぐほうが先で、お吉は、あわてて名号を巻もせずに懐中(ふところ)へかくした。
「何を見ていたっ」
良人の平次郎が、いつの間にか恐ろしい形相を持って、後ろに立っていたのだった。