ご講師:青木 新門さん(作家、詩人)
私は、富山県の黒部平野で生まれ、5歳の時に父母に連れられ満州に行きました。
父はシベリア戦線に行ったきりで、その後の消息は分かりません。
8歳の時に終戦を迎え、逃げまどっているうちに難民収容所に入れられました。
支援物資などもなく、乳飲み子だった弟が死にました。
発疹チフスの流行で母がどこかに隔離され、その後は妹と二人になりましたが、ある朝目覚めると妹が枕元で死んでいました。
私は、妹の亡骸を抱えて火葬場に行きました。
引き揚げの2日前に母が戻ってきて、病み上がりでふらふらの母の手を引いて富山に帰ってきました。
それから戦後の混乱の中で小中高時代を過ごし、大学を受験したら合格しましたが、大学に進学する資金がありませんでした。
親族で会議が開かれ、私を進学させてやろうということで、土地を売り学費を作ってくれたおかげで私は早稲田大学政治経済学部に入学しました。
当時の早稲田大学には、後に総理大臣になった小渕恵三や福田康夫などもいました。
60年安保の頃で、大学も荒れていて、学問に集中しにくい環境でした。
紆余曲折の末、大学を中退し、粉筆業を志しました。
新聞への投稿で取り上げられたり、後に吉村昭さんや丹羽文雄さんに認めていただき、今日このような仕事ができるようになりましたが、その当時は生活のためにやっていた飲食店の経営が破綻し、そんな折りに家内が妊娠するなど大変な状況でした。
子どものミルク代を稼ぐため、新聞の求人広告に応募し、成り行きで冠婚葬祭業の納棺専従社員になりました。
そうしたら、私を大学に進学させてくれた叔父から「お前みたいな奴は親族の恥だ。村へも顔を出すな」と罵られました。
家内仕事の内容が知れたとき、「けがらわしい」と言われ、せめて子どもが小学校に入学するまでには辞めてほしいと。
私自身もコンプレックスを抱き、人と会うことも避けていましたし、出来るだけ早くこの仕事を辞めようと思いました。
そんなある日、仕事で行った先が、かつての恋人の家でした。
恋人だった女性は横浜に嫁いだと聞いていましたが、その彼女の実父が亡くなったのです。
遺体の湯かんをしていると、彼女が私の横に寄り添うように座って、お父さんの顔や頬をなでたりしながら、私の額の汗も拭き続けてくれました。
彼女の夫も親族もみんなが見ている中での行為でした。
軽蔑や哀れみや同上など微塵もない、男と女の関係を超えた何かを感じました。
私の全存在がありのまま認められたように感じました。
そう思うと嬉しくなり、そのときこの仕事を続けていけそうな気がしました。
人間にはそんな瞬間というものがあるのです。
翌日、私は医師の着用する白衣を買い求め、その後、納棺の際に着用するようにしました。
同じことをしていても、コンプレックスを抱きボロボロの服を着て嫌々ながらやっているのと、ビシッと身なりを整え、礼儀礼節をわきまえながらやるのとでは、社会的評価が明らかに違ってきました。