ある時、娘に突然「お父さんはいつも、私のことが大好きと言っているのに、どうしてそんなに怖い顔をするの?」と言われました。
怒っていたわけではなかったのですが、疲れていたために娘への態度や表情が普段と違っていたのだと思います。
私はどちらかというと自分では感情があまり顔にでない方だと思っていますが、皆さまはいかがでしょうか。
情熱的な方などは感情が顔(表)に出やすいと言われますが、喜怒哀楽がはっきりとしていて、相手にも伝わりやすい印象です。
一方で内に込める方というのは、なかなかその喜怒哀楽が読み取りにくい場合もあるかもしれません。
相手との付き合いが長く深ければ、相手の表情や何気ない仕草から気持ちを汲み取ることもできる場合があるようですが、親しい中であっても、言っていることと思っていることが違うということは、大抵の大人ならば使い分けをしながら関係性を保っているはずです。
しかし、顔には出さないでおこうと思っていても、自分の予想以上に嬉しいこと、逆に悲しいこと、はたまた怒ってしまうような事態がおこると相手にも伝わるものです。
顔の見え方が変わる、相手の見え方が変わってしまうという経験、皆さまもありませんか。
自分がとても幸せな気持ちの時、相手の顔はどう見えるでしょうか。
自分がとても辛い時、相手の顔はどう見えるでしょうか。
自分のことを褒めてくれているという噂を聞いた時、褒めてくれた人の顔はどう見えるでしょうか。
自分の悪口を言っていたという噂を聞いた時、悪口を言った人の顔はどう見えるでしょうか。
私というのは、自分に好意を持っていると分かれば(知っていれば)、親しみをもって接することができるはずです。
しかし一方で、自分に敵意を持っている、嫌な態度をとる人へはどうでしょうか。
私の目に映る顔は、同じ顔であるにも関わらず、さまざまな顔に変化します。
我が身を犠牲にしても・・・と溺愛している我が子にさえ、自分の体調や機嫌一つで、怖がらせるような顔を見せてしまう私がいます。
よく日本の昔話でも「鬼」が出てきますが、娘から見れば、不機嫌で怒った私は、頭に角が生えた絵本などに出てくる「鬼」に見えたのではないでしょうか。
浄土真宗では、南無阿弥陀仏のお念仏を聞かれ、報恩感謝の人生を送られた方々を妙好人(みょうこうにん)とお呼びしています。
その方々はたくさんの気付きを与えてくれる言葉を後世に残してこられました。
そんな妙好人のお一人に、鳥取県の浅原才市さんという方がいらっしゃいました。
その才市さんの残した言葉に
「うちのかかあの寝顔をみれば、地獄の鬼のそのまんま、うちの家にや鬼が二匹おる。」とあります。
喧嘩でもしたある日、夜寝ているお連れ合いである妻の顔を見られたときのお気持ちでしょうか。
その表現の独特さに驚かされました。
まず妻をみて「地獄の鬼」と言われ、さらに「家には鬼が二匹」と自分のことも鬼と例えられています。
自分にとって都合が悪く、腹をたて、怒りの気持ちで相手をみれば、相手が鬼に見えるでしょう。
しかし、お念仏を聞かせていただく、仏法に出遇わせていただくということは、妻を鬼として見てしまうような、もっと恐ろしい鬼の姿をしている自分に気付くことです。
我が身の鬼の姿に気付くことができなければ、相手や他人への心はいつまでも変わることがありません。
「無明 自分の愚かさを 知らないこと」
自分の事は棚にあげてといわれるように、自分の事は自分が一番よく知っていると思いがちですが、実際そうではありません。
他人の嫌なところはすぐに見つけられても、自分のことはどうでしょうか。
時と場合が変われば、どんな恐ろしいことでも思い、考え、実行してしまう危うく恐ろしい心を持ち合わせているのが私です。
しかし、そんなどうしようもない私だからこそ、私が望むよりも先に、私が願うよりも先に、必ずあなたを仏ならせると言ってくださるのが南無阿弥陀仏の仏様です。
自分の愚かさにすら気づこうとしない私だからこそ、お念仏の日暮が大切なのではないでしょうか。
今、どんな顔をしていますか?
ほっておくと、どこまでも「地獄の鬼のそのまんま」かもしれません。
南無阿弥陀仏