10年ぐらい前だったでしょうか、あるご門徒さまから、
「うちの息子をなんとかお寺に参らせたいと思い、法要の度に声をかけるのですがなかなか参ろうとしません。親族の法事で参った時もうちに帰ったら、『住職の話も長すぎて疲れる』などと言っています。なんとかあの子もお寺に参るようにしたいのですが」
とのご相談をいただいたことがありました。
その息子さんは、私と歳が近い方でしたので、当時よく誘ったのですが、お母さまの願いは届きませんでした。
それから10年程経ち、先日そのお母さまの7回忌法要を勤めました。
一番前の席には門徒式章かけ、お念珠を持ち、まっすぐに前を見て聴聞しているその息子さんの姿がありました。
ご法事の後のお斎の席にてその方が、
「お寺に参って何になるのか。そう思っていた自分が、母ちゃんが亡くなってから不思議とお寺に足が向くようになり、手が合わさるようになり、お念仏まで称えるようなった。住職の話も以前は「何言ってんだろう!?」くらいにしか思っていなかったのに、同じ話を聞いても今は体にスーっと入って沁みてくる。自分でも、これが本当に自分なのかと不思議に感じている」
と、おっしゃいました。
今ではその方は、報恩講、永代経、お彼岸などの法座もよくお参りに来られ、『正信偈』は私と変わらないくらいの大きな声で読んでおられます。
大切な方を亡くし、目の前に人生の深い闇が口を開け、大きな悲しみと不安の中でお母さまの願いが本当に聞こえてきたのかもしれません。
またそのお母さまの願いでもある「阿弥陀さまの願い」が、その方の体深くまで届き、お念仏となってこぼれるようになったのかもしれません。
私自身も子をもつ一人の親として、日頃から言葉で伝えることの難しさ、限界を感じています。
成長すればするほど、自分の知識や経験において納得出来ることが大切だと考えているからだと思います。
しかし、これまで自分が積み上げてきた知識や経験が何の役にも立たないような大きな出来事が目の前に立ちはだかった時、「本当に自分の人生の支えになるものとは何か」という問いが生まれてくるのでしょう。
お念仏とは、人生の深い闇や苦悩の中に届いた阿弥陀さまからの光であり、声であります。
わが子がやがて親の姿を通して、自身の生き方を尋ねた時、手を合わせお念仏申す姿に出会っていけるような道を私も歩いていきたと思っています。