自分を信じるという愛し方を

先月、世界保健機関(WHO)が、世界で毎年約80万人が自殺で亡くなっており「20016年には15~29歳の青年層では死因の第2位になるなど深刻な問題になっている」と発表しました。

そして「自殺は社会全体の取り組みで防止できる」として、各国に包括的な対策を求めました。

ちなみに、祝日以外にいろんな「〇〇の日」というのがありますが、9月10日は「世界自殺予防デー」なのだそうです。

WHOによると、2016年の世界の自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数)は、推計10.53で、その内の約80%が中・低所得国に集中しているそうです。

特にロシア(26.5)やウガンダ(20)は比率が高く、一方中国(8)やパキスタン(3.1)は平均値を下回っていました。

また、高所得国ではベルギー(15.7)やアメリカ(13.7)が平均値を上回っています。

日本は、2010年は19という高い数値を示していましたが、2015年は15.1、2016年は14.3と、依然として平均値を上回っているものの、年々低下傾向にあります。

自殺の原因としては、経済苦や病苦のほかに、うつ病、アルコール依存症が引き金になる例が知られています。

この他、難民や移民、先住民、性的少数者(LGBT)など、差別を経験した人たちの自殺死亡率も高くなっているようです。

自殺の方法は、農薬や殺虫剤を使う例が農村部を中心に20%を占め、首吊りや銃火器も多いという報告がなされています。

このことを踏まえてWHOの当局者は、農薬や銃火器を適正に管理するだけでも自殺を防止できるとして「自殺未遂者のケア、アルコール依存症など、さまざまな機関が横断的に協力することが重要だ」と指摘しています。

日本では、自殺死亡率は低下傾向にあるものの、市販されている「沈痛解熱薬」や「総合感冒薬」の成分として含まれている、カフェインによる急性中毒者が、若者を中心に増加傾向にあります。

日本中毒学会における38施設の共同調査による報告では、2011~2012年度の2年間では15例を認めたのみでしたが、2013年には24例、2014年度は25例、2015年度は37例が認められています。

この5年間で、急性カフェイン中毒患者は101名で、2013年度以降患者が急増しているそうです。

2018年7月に開催された日本中毒学会総会では、例年になく多数の急性カフェイン中毒症例の報告が相次ぎ、それらの症例の主な傾向として次の5点が指摘されました。

①青少年のカフェイン製剤の大量服用による自殺企図者が多数認められたこと。

なかには14歳の小児例も含まれていたことなど、患者層の低年齢化が進んだこと。

②市販されているエスタロンモカなどのカフェイン含有製剤を数か所の薬店で大量購入した症例やインターネットのサイトを利用して簡単に入手することが可能であった症例が多数認めたられこと。

③自殺の方法をインターネットのサイトで調べて致死量を確認し、用意周到に実行に及ぶことも数多く認められたこと。

④カフェイン製剤の大量服用によるマスコミの報道に影響を受けて、自殺志願者が増加する傾向にあること。

⑤特に未成年者に対する薬店での対面販売に関することや、インターネットでの取引に関する規制が確立されていないこと。

カフェインが成分として含まれる総合感冒薬や眠気防止薬は、現在、薬店やインターネットを利用して容易に購入することが可能です。

今後は、カフェインが安易に自殺に利用されないようにするために、薬局薬剤師、医師会、中毒学会などによる規制措置や、国や厚生労働省による「濫用等の恐れのある医薬品」としての指定が必須になるのではないかと思われます。

ところで、仏教ではこの「自殺」ということについて、どのように捉えているのでしょうか。

私たちの「欲望」を「三愛」という言葉で説いているのですが、その第一は「欲愛」です。

これは、いろいろなものや事柄に対する愛着のことで、物質欲や社会的地位、名誉などに対する欲、それらをすべて「欲愛」という言葉で表しています。

これは言い換えると所有欲のことで、自分のものとして所有したい、自分のものにしたいという欲です。

次に、私たちの欲望の中には、自分が存在していることに対する欲、自分がいつまでも生き続けられるようにという欲があります。

これが第二の「有愛」で、生存への欲、生存への愛着です。

それと同時に、人間には第三の「非有愛」があると説いてます。

これは、自分が存在しなくなることへの愛着です。

つまり、自分がこの世に生き続けることを拒否したいという欲で、仏教では「自殺」をこの「非有愛」で押さえています。

「自殺」というのは、決して自分を放棄することではありません。

もし自分を放棄してしまったとしたら、ただ成り行きに任せて流されるように生きればよいのですから、あえて自ら死ぬ選ぶ必要はなくなります。

実は、自殺するということは自己主張なのです。

今の自分の状態は、自分には到底納得できない。

今の自分は、本当の自分の姿ではない。

だから、そのような状況に追い込んだ者、あるいは自分を受け入れない社会に対する抗議とか、怒りとか、そういうこの世に対する否定の感情が、そのまま生き続けていくことを拒むのです。

このように、人間は死ぬという形で生きるということがあるのです。

むなしさとか、苦しさの果てに、自らの人生そのものを否定する。

そういう形で自分を確保したいという心を持っているのです。

世界で毎年約80万人が自殺で亡くなっているということですが、これは実際に亡くなった人の数ですから、自殺を試みた人はもっと多かったのではないかと思われます。

さらに、「死にたい」と思った人は、さらに多いのではないでしょうか。

もしかすると、あなたも一度くらい、そういうことを思ったことがあったのではありませんか。

でも、今まだここにこうして生きています。

そうすると、あなたがこれまで「死にたい」と思った数は、それを乗り越えてきた数だといえます。

仏教は、この思い通りにならない人生において、私たちに生きる勇気を与えてくれる教えです。

本当に自分を愛する心があれば、自らを否定する方向ではなく、自分を信じるという愛し方に目を向けてみませんか。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。