「共命鳥」と「一卵性双生児」

鹿児島県内の浄土真宗のお寺を母体とする保育園、幼稚園、認定こども園が加盟する鹿児島教区保育連盟という組織があります。

その鹿児島教区保育連盟が監修、制作した子ども用の教材に、子どもたち自らが自分の手で作り上げる「ミニ仏壇」があります。

今、自宅にお仏壇のある家庭がほぼ無くなってきた中で、子どもたちは園生活の中で手を合わす機会はあっても、一番身近な「家庭」や「家族」という環境の中で合掌の心が育まれることがなかなか少ないように思います。

手を合わすということは、決して習い事などというものではなく、多くのお陰によって「生かされているいのちにめざめる」、まさに人間としての土台を育む乳幼児期の子どもにとって大切な育ちの一つではないでしょうか。

また子どもたちの合掌礼拝する姿を通じて、若いお父さんやお母さんも我が子に導かれて子どもと共に敬いの心を育み、毎日の生活の中に手を合わす環境をまずは身近な家庭から、という願いのもとに制作されたのがこの教材です。

 

このミニ仏壇に、極楽浄土にいるといわれる六つの鳥が登場してきます。

これらの鳥は仏さまの教えを説き弘めるために、それぞれに物語を持っています。

その一つに「共命鳥(ぐみょうちょう)」と呼ばれる鳥がいます。

上の画像でいうと左上にいる鳥です。

この鳥は「一身双頭」という不思議な鳥で、胴体は一つですが頭が二つあります。

それぞれに個性や考え方を持っていますが、胴体は一つで命を共にしているところから共命鳥と呼ばれています。

この鳥の物語として、ある時一方の鳥が眠っている間に、もう片方の鳥は相手に黙っておいしい木の実を自分だけ食べてしまいました。

それに気付いたもう一方の鳥は腹を立てもう片方の鳥を憎み、やがて「こいつさえいなければ自分も自由に飛び回ったり思い通りに生きることができるのに」という感情を持ち始めます。

そしてとうとうある時、片方の鳥に毒の実を食べさせて殺そうとします。

けれども、胴体は同じですので結局はその毒が自分にもまわり、どちらも息絶えてしまうというのがこの共命鳥の持つ物語です。

もちろんこの鳥が実在しているものではありませんが、いる・いないということではなく、大切なことは仏さまが共命鳥を通して何を私たちに伝えたいかを伺うことです。

ふり返ってたずねてみると、私たちの社会でも共命鳥と似たような境遇に出会うことも少なくはないような気がします。

自分にとって都合の悪い人、気にくわない人。

意見が違ったり、考え方が合わなかったり、そのことで相手の全てを否定し、排除してしまいかねないのが自分であります。

また、自分勝手な思いを押し通すことは、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうことになりかねません。

共命鳥はまさにそのような自己中心的な思いで生きている私の姿を映し出しているようでもあります。

ですが、この共命鳥もそのような過程を経て今は極楽浄土の世界で、お互いを労り、慈しみ、『他を滅ぼす道は己を滅ぼす道。

他を生かす道は己を生かす道』と美しい声を響かせながら、仲良くする姿の象徴としてお浄土の中に描かれています。

このミニ仏壇を教材として子どもたちは、制作する過程の中で担任の先生からお浄土に舞う鳥たちの物語を聞きながら仏さまの教えにふれ、お友だちと仲良くする大切さや優しい心を育んでもらいたいというのが、この教材のねらいでもあります。

来年小学生になる我が家の双子の娘も、通っているこども園でこのミニ仏壇を制作し、それぞれ嬉しそうに「私のお仏壇」を大事に抱きしめながら家に帰ってきました。

早速家のお仏壇の前に二つ並べて飾り、鐘を何度も何度も打ち鳴らしながらはりきって手を合わせて「なもあみだぶつ」とお念仏している我が子の後ろ姿を目を細めて眺めることでした。

一卵性双生児の双子として生まれてきた二人の娘。

母親の胎内で一つの同じ卵の中で、同じ胎盤を共有しながらの妊娠期間でありました。

片方に栄養が偏りすぎないか、成長に差が生じていないかなど、出産を迎えるまで日々心配は絶えませんでしたが、そんな二人の姿がまるでお浄土の共命鳥のように、私の目には重なって見えるのでした。

このミニ仏壇を作ってから、二人の姿に変化が見られるようになりました。

まだまだ5歳の幼い子どもですので、しょっちゅう二人で言い争ったり取り合いをしたり、ケンカも絶えません。

けれども、ふと共命鳥の鳥を二人に思いださせてあげると、お互い思いだしたように「あっ」と顔を見合わせ、そうだったそうだったと自然と穏やかな心に戻り、譲り合いながらまた二人で仲良く遊ぶ姿が見られました。

二人とも双子としての意識は既にありますので、共命鳥の物語を聞いて何かしらそれぞれの心に響くものがあったのでしょう。

言わば母親の胎内にいる時から同じ胎盤を共にして命を生きてきたのですから。

いつまでこの声かけが二人の心に届くかは分かりませんが、そんな二人の姿から、私もまた仏さまの心に触れさせていただいているようです。

今日もまたいつものように双子の共命鳥がドタバタとやってきては、またいつのまにか緩やかに羽ばたいていく。

仏さまの教えはどこか遠い世界の物語ではなく、いつも私の側で私に語りかけてくれているようです。

 

 

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。