2019年1月法話『恵まれたいのちの不思議を生きていく』(中期)

一般に、私たちは不自然なことが起こったときに「不思議」という言葉を使います。

例えば、自分の知っている範囲では決してそのようなことが起きるはずがないのに、にもかかわらず「現実に起きた」というようなときに、「何と不思議なことだ」と口にしたりします。

このように、私たちは自身が不自然だと感じるようなことに出会ったときに「不思議」と言ったりするのですが、仏教では、私たちが当たり前と思っているようなことを「不思議」といいます。

具体的には、どうして私たちは人を愛したり憎んだりするのかといったことについては、心理学的に分析して説明することができます。

けれども、私たちは特に意識しなくても、気がつけば誰かを愛していたり、あるいは憎んだりしています。

そのような心が起こるということが、まさに「不思議」だというのです。

曇鸞大師の著された「浄土諭註」には、五種の不可思議ということが挙げられています。

実は「不思議」と「不可思議」は厳密にいうと、少し違います。

「不可思議」というのは、「思議すべからず」ということで、「分からないことを分かったつもりになるな。

分からないということを知れ」という意味です。

この「思議」というのは「分別」のことですが、私たちはいろいろなことに対して、何も分からないのではなく、なんでも分かったつもりでいたりします。

そのため、何でも分ったことにして、日々の生活において自分を振り返ることのないあり方に終始しています。

だから「思議すべからず」、つまり「分からないことを分かれ」と言われるのです。

なお、「不思議」の方は「人知の遠く及ばないこと」 「想像もできなければ説明もできないこと」という意味ですが、今はほぼ同じ意味として理解したいと思います。

さて、「浄土諭註」によれば

  • 一つには衆生多少不可思議
  • 二つには業力不可思議
  • 三つには龍力不可思議
  • 四つには禅定力不可思議
  • 五つには仏法力不可思議なり

とあります。

一番目の「衆生多少不可思議」というのは、無数の人びとの存在に目覚めるということです。

一つのことが成り立ち、一つのことが行われるその背後には無数の人々がおられますが、それは生きていく中で自分の歩みを支えてくださっている無数の人々がいらっしゃるということです。

そういう無数の人々の存在に気付き、自分を支えてくださっている存在のあることに目覚め、その事実に感動することが不可思議だと言われます。

この不可思議というのは、感動の言葉です。

それは、分からないということではなく、理屈を破って迫ってくる事実に、ただ感動するほかはないということです。

二番目の「業力不可思議」というのは、その命が持っている極めて自然なあり方をいいます。

例えば、海亀は砂浜で生まれると誰に教えられたわけでもないのに自然と海に入っていきます。

ワニの子どもも、生まれると当たり前のように川に入っていきます。

中国では「理」ということを「然る故を知らずして然るをいう」と説明します。

これは「そうなっている理由はわからないがそうなっている、それを理というのだ」ということですが、それと同じように存在を貫いているもっとも必然的なこと、いちばん基本的でいちばん必然的なことが「業力不可思議」なのです。

これを身近なところでいうと、私たちは誰に教えられわけでもないのに、漠然と不安を感じたり、ふと空しさを感じたりすることがありますが、これが業力不可思議ということです。

三番目の「龍力不思議」というのは、自然のもつ力の不思議さです。

中国では龍は雨をもたらすとされますが、「龍力」というのは自然の恵み深く感じることで、冬がくれはその後には春がきますし、やがて夏がきて秋になります。

そのような自然の不可思議を自覚することをいいます。

四番目の「禅定力不可思議」というのは、仏道修行をした人が、その成果によって身に自然と備えている徳の不可思議です。

その人の前に立つと自然と心が和やかになるとか、その人に出会うことによって人を信じられるようになったなど、徳によってその身に成就している不可思議のことです。

五番目の「仏法不可思議」とは「しかるに五不思議の中に、仏法最も不可思議なり。

仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまう」とあり、曇鸞大師はこの五つの中で五番目の仏法力不可思議がもっとも不可思議だと述べておられます。

「声聞」というのは、一つの悟りを開いた人で「阿羅漢」とも言われます。

この声聞は、苦悩の世を離れて自分の悟りの中にこもっているため、周囲の人と関わることもなく自分だけの悟りに浸っています。

その声聞が無上道心を生ずるようになる、それこそが仏法不可思議だと『論註』では言われているのですが、このことを私たちのあり方に重ねて考えると、それは私が今こうして仏前に手を合わせているということになります。

つまり、私が念仏を申しているということが、まさに仏法不可思議なのです。

なぜなら、自分自身の心を見つめると、自ら仏前に座り手を合わせることなど、ありようのない私が、手を合わせて頭を下げています。

つまり、どう考えても手を合わせる心など持ち合わせているはずのない私が、仏前で手を合わせて頭を下げていることが「不可思議」なのです。

そうすると、私たちは気がつけば今の自分であり、それ以降もこうして今日まで生きてきました。

このいのちは、自分で作った覚えもなければ、頼んだ覚えもないままに、私は今こうして生きています。

それは、今いのちが私を生きているとしか言い表せない確かな事実です。

また、このいのちは、自分で作った覚えなど全くないのですから、「恵まれた」としか言い表しようがなく、その事実は「不思議」でしかありません。

私たちは、自分が生きていることを当たり前のことであるかのように錯覚し、日々をそのことを意識することもないままに生きていますが、このいのちは恵まれたいのちであることに深く頷くとともに、今こうして生きていることの不思議さに心をよせながら、人間として生まれ人間として生きていくことの意味を考えたいものです。