本年も新しい年を迎えることができました。
「恵まれた 今のいのち」「与えられた 今のいのち」、その「いのち」を、「いのちの不思議」と有り難く、謙虚に、感謝のなかに「生かされて、生きていきたい」ものです。
しかし、現実の生活は、俺が、私がと、何かと、とげとげしく、窮屈に生きてしまいがちです。
新年を迎え、今一度、「恵まれた いのちの不思議を生きていく」ことの意味、内実を問うてみたいものです。
まず、「恵まれた」「いのちの不思議」という受動的な言葉からは、自我のちっぽけな計らいで「生きている」のではなく、私の思い、計らいを超えた、何らかのはたらきによって「生かされている」という、良いニュアンスを感じ取ることができます。
「おかげさま」「ありがたい」と同等の感覚です。
なるほどと頷けるものがあります。
また逆に、「生かされて、生きている」と受け止めながらも、「生きている」という面にとらわれることがあります。
しかし、よく考えてみると、私の力で「生きている」のであれば、私の人生を、もっと思い通りに楽しく生きられるはずです。
「思い通りになるものだというところに 迷いがある」という法語にもであいました。
現実はどうも思うようになってはいかないのです。
仏教では「苦」といいます。
そこで、つい不満や愚痴がでてしまいます。
そこには、何か大きなはたらきによって、私は「生かされている」のだなあと実感はできますが、私を「生かしているはたらき」については、案外と思いが至ることなく、深く考えることなく素通りしているのではないでしょうか。
何となくモヤモヤした感覚(消化不良の状態)にあると、つい、うっぷん晴らしというわけではないでしょうが、不満や愚痴となってしまいます。
このモヤモヤした感覚について、もう20年以上になるでしょうか、ある宗教雑誌で、貴重なご教示を頂きました。
『・・・ご法話等で、「生かされている」という言葉が使われる時、すぐ「如来さまに生かされている」となり「生かされていることに感謝しましょう」と、結論めいたメッセージが届けられる。
何か、キツネに騙されたような気がする。
そこには、少し飛躍(ズレ)があるように思えてならない。
自分の意思の及ばないものに生かされている身であるからこそ、「生かされていて苦しい」という面もあるのではないか。
ただ単に「生かされている」だけでは、救いはない。
それは、私たちは束縛された業縁に生かされている「迷いの存在」であるからである。
そのことを蓮如上人は「無始よりこのたかの無明業障のおそろしき病」と示された。
いわば「業縁に生かされている」我等の苦悩を見出されたのが、阿弥陀の大悲といえる。
この一点がはっきりしないと、一切をもらさず救わんと誓願を建てられた阿弥陀如来の大悲の始まりが聞き開けず「生かされていることの喜び、感謝の念」は、私からは生じないといえる。
・・・・・・・・無明煩悩に狂わされている自己に目覚めさせられ、阿弥陀仏の薬(本願醍醐の妙薬)を調合し、服用しなければならない重病人であったと気づかされる。
ここに至って、初めて薬を頂戴する心になれる。
おしいただいて服用する。
病人と薬とが一つになる(応病与薬の法門)。
もし「生かされる」という言葉を使うとしたら、「仏法に生かされる」歩みが始まる。
まさに、業縁の中に法縁を結び、更に娑婆の苦悩を浄土の機縁たらしめる。
この如来深重のご化導によって、仏道の歩みに立つことがあり得たといえる。』
長い引用になりました。
また難しい仏教用語がつかわれていますが、「生かされる」ということの、深遠な意味を知ることができたような気がします。
阿弥陀如来の大悲にであう(仏道に立つ)ことによって、はじめて「生かされて、生きていく」、「恵まれた いのちの不思議を生きていく」ことのできる私が誕生するのではないでしょうか。