春になると梅、桃、桜の順番で花が咲きます。
毎年のことなので、私たちはそれを当たり前のことの ように思っているのですが、世の中の事象には必ず原因があり、いろいろなことが関わり合って結果が生じます。
これを仏教では「縁起」といいます。
ところが、一般に「縁起」という場合は、「縁起がよい」とか「縁起が悪い」というように、「ものごとの起こる前ぶれ」とか「前兆」の意味で用いられています。
では、仏教で説いている「縁起」とはどのようなことなのでしょうか。
「縁起」とは「因縁生起」のことで「因って起こること」です。
具体的には「苦しみは、なんらかの直接的な原因(因)間接的な条件(縁)によって起こり、その原因・条件(因縁)がなくなれば苦しみもなくなる」と説いています。
そのため、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的な原因(これを「無明」といいます)をさぐりあて、それを滅すると苦しみを解消することができるのだと教えています。
お釈迦さまは、心身の調和を得た瞑想によって、無明によって苦が生まれ、また無明を滅することによって苦も滅せられることを明らかにされたのだと思われます。
なお、この「縁起の教え」は、後に整理されて「十二支縁起(十二因縁)」と呼ばれる教えてして完成されます。
十二支とは、
- 根源的な無知(無明)
- 生活行為(行)
- 認識作用(識)
- 心と物(名色)
- 六つの感覚機能(六処)
- 対象との接触(触)
- 心の作用(受)
- 本能的な欲望(愛)
- 執着(取)
- 生存(有)
- 誕生(生)
- 老いと死(老死)
のことです。
この「十二支縁起」の理解については、樣々な解釈があって説明することが難しいのですが、私たちは、お釈迦さまはこの世界が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみを説明される一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が無明であることを明らかにされたのが縁起の教えだと理解すればよいのではないかと思います。
『雑阿含経』などで十二支縁起が説かれるはじめの部分には、しばしば
これあればかれあり これ生ずればかれ生ず
これなければかれなし これ滅すればかれ滅す
という定型の表現が見られます。
これは、この世に存在している一切のものは、何一つとして単独にあるものはなく、すべてが共に持ちつ持たれつの関係性の中で存在していることを述べたものです。
そうすると、私たちが見たり、体験したりしているこの世界の一切の出来事は、必ず諸々の原因と条件が関係し合って成立していることになります。
不慮の事故に遭遇した場合、あるいは突然苦しみや悲しみに襲われたとき、私たちは不条理なことが不意に起こったと感じてしまうのですが、実はその事柄には必ず原因があり、いろいろな条件が複雑に絡み合って起こっているのです。
そこで仏教では、現に起こっている出来事から目を背けることなく、あるがままに見ることを「縁起を見る」といい、そのように見ることができことを「智慧を得る」いっています。
美しく咲いている花を見ると、そこには土とか水とか光といった自然の恩恵という縁のあることが知られます。
そのようなことを通して、すべてが変化し何一つとして頼るべきもののないこの世界において、いま私がここにこうして存在しているという事実は、まさに樣々ないのちによって支えられてあるということに心を寄せたいものです。