京都の西本願寺で委員会の作業部会に出ている最中、着信がありました。
スマホの画面を見ると福岡に居る娘からでした。
私から時折LINEで連絡することはあっても、返信や何か用事の依頼があるとき以外、あまり自分の方から連絡してくることはないので、委員会中ということもあり休憩時間にかけなおすことにしました。
半時間ほどしてかけた時は繋がらず、委員会が終わってからかけた時にようやく話をすることができました。
開口一番「聞いた?」と。
その声にはいつもの快活さはなく、かなり沈んだ雰囲気が伝わってきたので、少なくとも「良いこと・嬉しいこと」ではなく、何か「悪いこと・悲しいこと」があったのだと感じました。
そして「もしかすると飼っている犬が死んだのでは?」という不安がよぎりました。
「聞いてない」と答えると、返ってきたのはやはり、可愛がっていた犬が突然死んでしまったということでした。
その犬は、娘が帰省するときにはいつも一緒に連れ帰ってきていました。
犬用のおやつを毎日与えることもあり、私にもすっかりなついていて、私を見ると嬉しそうにまとわりついたりするなど、とても愛らしい犬でした。
「朝はいつものように元気だったのに、さっきベッドのふとんの中で死んでいた」と。
そのことが、あまりにもショックだったようで、本人は未婚なのですが「自分にとっては娘同然だった」とか、「自分はこの子(犬)に会うために生まれたきたのに…」とか、「これからどうして生きていけばいいのか分からない」などなど。
まるで「本当の我が子を亡くしたのでは?」と思われるような言葉が、次々と聞こえてきました。
犬が小型のチワワで、ふとんの中で死んでいたということから、自分が寝ている間に押しつぶして死なせてしまったのではないかと考えているようで、「突然死の原因は自分にあるのでは…」といったことも重なり、かなり落ち込んでいるようでした。
これまで娘は、この犬と5年間ずっと一緒に暮らしてきたので、深い悲しみに包まれていることがひしひし伝わってきました。
ペットロスという言葉があります。
動物に対して深い愛情を注いで関わっていれば、その死には人間同然、あるいはそれ以上の喪失感に襲われるということを物語る言葉ですが、これから娘は立ち直るまでの間、それを実感しながら過ごすことになるのだと思いました。
そして、娘と話をしながら、ふと遠い記憶がよみがえってきました。
それは、私が小学6年生の頃に飼っていたメジロが、朝起きたら鳥籠の中で死んでいたという光景です。
「3月1日」と、日付までちゃんと覚えています。
その時は2羽飼っていたのですが、そのうちの1羽が死んでいる姿を見たとき「本当は自然の中を自由に飛び回りたかったかもしれないのに、こんな狭い鳥籠の中で死なせてしまった」という罪悪感のようなものが込み上げてきて、もう1羽は鳥籠から出して解き放ちました。
それは、またいずれもう1羽のこういう光景を目にする日がくることが予想され、申し訳なさと同じ悲しみを味わいたくないという思いがよぎったからです。
娘には
「まだすぐには元気が出ないと思うけど、今とても辛くて悲しいのは、きっと可愛がっていたココちゃん(犬の名前)が、嬉しいこと、楽しいこと、その他たくさんのことを贈ってくれたからだよ。何も贈ってくれていなければ、決して悲しかったりすることはないと思う。悲しみの深さは、贈られていたことの重さに比例する。だから、言葉も出ないくらい悲しいのは、いろんなことを贈ってもらったからなんだ。でも、ココちゃんから贈ってもらった楽しい思い出がいっぱいあるから、きっと立ち直ることもできるはずだ。今はまだ悲しくても、いつかまたココちゃんのことを笑顔で話せる日が来るよ。」
そういって電話をきりました。
娘は、大切にしていた犬の死に直面して「生きることの意味がわからなくなった…」と。
「生を奪う死は、また生きる意味を与える」という言葉があります。
人であれペットであれ、その死という厳粛な事実は、私たちに「生きる」ことの意味を問いかけてくれます。
深い悲しみの中から、そのことを人生の問いとして受け止めてもらえたら…と思ったことです。