この春、約5年半過ごしたこども園を卒園し、4月から小学1年生となった双子の娘。
振り返ると、双子の妊娠であったため妻は半年近く鹿児島の市立病院に入院。
妊婦、そして二人の胎児の様子を逐一確認しながらの長い長いベッドの上だけでの入院生活。
「峠を越えた」と医師が口にするほど妻の命に危険を伴った大変な出産。
そして産まれた後も入院の続く双子の娘たちへ、冷凍保存した母乳を届けに約1か月間、何度も何度も自宅と鹿児島市内を往復した日々。
親になるって大変なことなんだ、凄いなぁと、改めて自分の両親、そして命を繋いでくれたこれまでの祖先へ思いを寄せることでした。
初めての育児、我が子を授かって初めて私も親とならせていただき、まさに「0歳のお父さん」の誕生であります。
子どもに年齢を尋ねられるとき、半分冗談、でも半分は本気で私はこう答えるようにしています。
「おとうさんなんさい?」
「お父さんも3歳だよ、一緒だよ」と。
でも決まって子どもたちからは「ちがう」と笑われますが、父親になってからの年齢は子どもの年と同じであることに違いはありません。
二人の娘が6歳となった今、私もお父さんとして6歳を迎えたのであります。
さて、話はがらっと変わりますが、私もお寺の住職として多くの方のお葬式にお参りをさせていただきます。
その際に用いる「お位牌」。
法名やお名前、ご命日等を記し、荘厳壇(祭壇)の正面に遺影とともに置かれている白木のお位牌は皆さんもよく目にされると思います。
お位牌にはお名前の横に年齢を記しますが、その年齢は満年齢ではなく、行年または享年、いわゆる数え年を記します。
わかりやすくいうと満年齢に1歳足して年齢を書きます。
社会通念上は様々な書類等において満年齢が一般的です。
この世にオギャァと誕生し、産まれたその日を0歳の誕生日として毎年誕生日を迎えるごとに1歳、2歳と年齢を重ね、人生の歩みがスタートするのです。
けれども、「命」の歩みとして考えるとき、この世にオギャァと誕生する以前から母親の胎内において確実に一つの命として存在していたのであります。
産まれ出る前から母親と共に既に命の歩みは始まっているのです。
いわゆる十月十日、約1年近くを胎内で間違いなく生きてきたその1歳分を加えて、お位牌や過去帳にお年を記すのであります。
そのように年齢を見ていくとき、私-親-祖父母-曾祖父母—と、命には必ず重なる瞬間があることが窺い知れるのではないでしょうか。
命は点と点で関係しているのではなく、まさに長い線で遙か昔より私へと導かれているのです。
私の命はそのまま父の命であり、母の命であり、祖父母の命であり、言い換えれば、父の命を、母の命を今私が生きている。
そして今、その命は娘たちへ。
小さな1年生の背負うずっしりと重い大きなランドセルには、これまで繋いできた多くの命が入っている。
そう思いながら、今日も元気よく駆けて登校していく二人の背中を見送ることでした。