仏さまの教えを聞くことを「お聴聞(ちょうもん)」や「聞法(もんぼう)」といいます。
「聴」と「聞」は、両方とも「きく」ですが「聴」は私のほうから聴くのであり、「聞く」はどちらかというと聞こえてくるという意味です。仏教の教えは、私が一生懸命聴いていると思っていますが、実は仏さまの教えが聞こえてくるのだという気持ちで受け取らせてもらうのが「お聴聞」です。
「聞法」は法を聞くと書きますが、法は法律ではなく、み教えのことです。仏さまの教えを聞かせてもらうのが聞法です。
「お聴聞」や「聞法」で、仏さまのみ教えを聞くのは、鏡を見ることに近いと私はよく話しています。仏さまの教えという鏡の前に立つと、外見だけではなく内面まで見えます。浄土真宗ではその教えを学べば学ぶほど自分の姿が見えてくるような学び方をしていただきたいのです。お話を聴いて「よく分かった。ちょっと賢くなったぞ」と思ったら実は仏の悟りから離れています。仏の悟りとは真実に目覚めることです。なぜ、真実のものが見えないかというと煩悩(ぼんのう)があるからで、驕(おご)りやいろいろな汚い心があるから物事が正しく見えないのです。仏さまの教えを聞けば聞くほど自分の至らない面、いかに自分の心が汚れているか、まっすぐ正しくありのままに物事が見えていないという事に気づかされます。だからといって自分はだめだということではありません。至らない私が見えてくると同時に、至らない私が多くのものに生かされ、また正しい方向に導かれながらお育ていただいているということも見えてきます。自分の至らなさや愚かさが見えてくるということは正しい方向が見えているということです。
「南無阿弥陀仏」ってなあに?
「南無阿弥陀仏」というお念仏は、願いごとを叶えるための呪文ではありません。「南無阿弥陀仏」と称えたからといって思いどおりになるわけではありません。阿弥陀さまの方からいえば「いつも見守っていますよ、だから心配しないで命いっぱいに生きてくれよ」という喚(よ)び声であり、私たちの方からは「いつも見守ってくださってありがとうございます」という報恩(ほうおん)感謝の言葉なのです。
自己中心の心に振り回されて生きている私たちに「私が、私が、と小さな命の世界に閉じこもっていないで、大きな命の世界に目覚めてくれよ。どんなことがあっても、あなたを見捨てず正しい世界に導きますよ」と喚び続けてくださっている声ともいえます。その声に喚び覚まされて、少しずつですが、正しい方向に導かれながら生きる人生に恵まれるのです。ですから「南無阿弥陀仏」は、私が称えて、私が聞いている念仏ですが、同時に私を真実の世界に導いてくださる、阿弥陀さまの喚び声であると理解できるのです。「こちらが正しい方向だよ」と導いてくださっている声だと受け止めていただければいいと思います。「南無阿弥陀仏」と称えることで願いが叶っても叶わなくても共に私の大切な人生だと引き受けていく力を与えてくれる、これが浄土真宗の教えです。阿弥陀さまは願いごとを叶えてくれないけれども、願いごとを解決してくださるのです。どうなっても大丈夫という境地に導いてくださるのです。