先月3日付けの南日本新聞に「かごしま2020を語る」というインタビュー記事があり、その見出しは「他力本願脱し自助心を」となっていました。これは、2019年の総括と新年の展望を尋ねられた商工会議所の会頭が、「19年は鹿児島にとっていい年ではなかった。それまでにすべきことをしなかったからだ。18年にNHK大河ドラマ『西郷どん』や明治維新150年といったイベントがあるのは分かっていたのに、17年の観光客をどう増やすかや、19年の反動減対策を真剣に考えてこなかった。鹿児島は昔から他力本願。新しい年は自助心を持って真剣に議論すべきだろう」と語った言葉からつけられたものです。
「他力本願」という言葉は、浄土真宗においてはとても大切な言葉なのですが、昔から世間一般では本来の意味とは異なった「他人の力をあてにする」という別の意味で、しばしば用いられてきました。今回のインタビュー記事も、まさにその典型ともいえる誤用ですが、「他力本願は、依然として誤用が幅をきかせているな…」と、残念に思ったことです。
依然としてというのは、例えば2002年の5月16日に、オリンパス光学工業が朝日・毎日・読売・産経といったいわゆる全国紙に「他力本願から抜け出そう」という広告を出し、それに西本願寺が抗議するということがありました。西本願寺は、抗議をしただけでなく、他力本願という言葉の意味を浄土真宗の門信徒の方々に改めて正しく理解して頂けるようにとの配慮から、毎月発刊している『本願寺新報』の紙上で、他力本願とはこのようなことだという説明文を掲載しました。
今回の商工会議所の会頭も、2002年のオリンパス光学工業も、決して浄土真宗の他力本願の教えを批判したわけではありません。一般に理解されている「他力本願」とは、私から見て「他(者)の力をあてにすること」ですが、商工会議所会頭の言葉は、これに基づいたもののようです。また、オリンパス光学工業は、若者たちが陥っている特徴として指摘されている「自分たちの仕事に対して無関心・無感動・無気力だ」といわれるあり方をとらえ、採用にあたってそのような若者に我が社に来てもらっては困るということで「他力本願から抜け出そう」という広告を出したのだと説明しています。つまり、他力本願という言葉は、「無関心・無感動・無気力な人」を象徴する表現として用いたということですが、これもまた、自分では何も努力せず他の人びとに依存するあり方を物語る言葉との前提を踏襲したように思われます。
では、親鸞聖人が明らかにされた「他力本願」とはどのような意味なのでしょうか。親鸞聖人はお手紙の中で、「阿弥陀仏が本願に、すべての人びとを救うという誓いを建てておられます。その本願に誓われている阿弥陀仏の力を私たちが信じることを他力というのです」と述べておられます。このことから、他力とは本願に誓われている阿弥陀仏の力を信じることをいうのであって、自分が本願と関わることを除いて他力ということをあれこれ論じても無意味だということが知られます。
そこで改めて「他力」と「本願」との関係を窺うことにします。まず阿弥陀仏は本願に何を誓われたかというと、「念仏する衆生を必ず浄土に往生せしめる」という願いです。では、「他力」とは何かというと、「その本願を信じて念仏する衆生を必ず往生せしめるはたらき」になります。本願とは念仏する者を救う、それに対して他力は本願を信じ念仏する者を救うはたらきそのものです。つまり、浄土真宗おいては、他力本願とは阿弥陀仏の浄土に往生して仏になろうとする行業として語られている言葉であり、それ以外のことについては用いていないのです。
また、「他力」の「他」を私から見た「他者」として理解する人が多いのですが、「他力本願」の主体は阿弥陀仏ですから、これは「阿弥陀仏が他を救うはたらき」を意味します。それは「他」とは、私を意味する言葉だということになります。一般には自分では何もしないで他をあてにすることを「他力本願」だと誤解する人が多いのですが、何もしないというのは、自分が主体ですから「自分で何もしないこと」は「自力」の範疇であり、言い換えると「他者依存」ということになります。
言葉の一面的・表面的な理解から、長い間「他力本願」という言葉は誤用されているのですが、この言葉は私と阿弥陀仏との関係においてのみ語られる言葉で、世間一般で用いられている「他力本願」は、「他者依存」という言葉が適切だということになります。