薩摩藩で多かったのは、臨済宗と曹洞宗です。そのうち臨済宗は、中世(鎌倉・室町・戦国)において外交と学問の機能を果たしていました。特に薩摩では臨済宗が外交官としての役割を果たしていました。南九州は三方を海に囲まれていたため、古くから様々な人々がやって来て交流交易があるほか、嵐などで漂着民がやってくることもあり、各地の公安拠点に語学の堪能な臨済宗の僧侶が配置されました。
もともと臨済宗は、幕府とのつながりが深く、日明貿易の正式な使者に選ばれていたので、薩摩藩でも臨済宗の僧侶が外交的な役割を担ったのです。彼らは実際に海外に渡航しました。その結果、行った先で中国の儒学を学び、仏教の知識の一つとして持ち帰りました。日本儒学や朱子学を広めたのも臨済宗です。琉球王国と薩摩の外交も臨済宗が中心でした。
一方で、曹洞宗の役割は弔いや供養でした。戦乱の世、中世は争いの多い時代でした。戦乱の中で特に島津家は日新公(にっしんこう)以降、大きな戦争があった後に「施餓鬼供養(せがきくよう)」を行いました。戦場に多数の僧侶が集まり、敵味方なく亡くなった方を供養するのです。同時に「これで戦いはなし」「ここは戦いの結果、島津家が治めます」というアピールでもあったようです。施餓鬼供養のあとには「六地蔵塔」を建立しました。六地蔵塔は六角柱の各面に地蔵菩薩が彫られていて、死後に六道のどこに行っても供養されるようにと、弔う意味で造られました。勝ち戦の場合はその場所に造りましたが、朝鮮出兵で撤退したときには紀伊の国の高野山に「敵味方供養塔」を建立しました。これらはすべて曹洞宗の僧侶によって行われました。
弔いは曹洞宗。学問と外交は臨済宗。そして、天台宗や真言宗は祈祷です。鎌倉時代の元寇の際は、天台宗・真言宗が一生懸命祈祷しました。幕末に欧米の船が日本に接近する際は真言宗や天台宗の僧侶が「異国調伏(いこくちょうふく)」を行いました。「外国船が接近しませんように」と祈祷すれば外国船が来ないと信じていたのです。文永3年、薩英戦争の時には四十九所で異国調伏の祈祷を行いました。このように薩摩藩では宗派によって役割が与えられていました。しかし、この中で浄土真宗の役割は特定できませんでした。後から入ってきたため、先に入ってきた宗派で役割を埋め尽くされていて、役割に食い込みきれなかった側面があるのではないかと考えられます。
廃仏毀釈と近代鹿児島
「廃仏毀釈」は幕末、天皇の先祖にあたる神さま、神社を崇めていこうとする尊皇思想の高まりとともに廃仏論も高まって起こりました。薩摩藩の廃仏は100%です。なぜ100%だったのかとよく議論されるのですが、理由の1つは民衆がほとんどかくれ念仏だったから。2つめは、僧侶に対して廃仏後の生活保障が万全だったから。3つめは寺請制度関係。4つめは上からの支持を忠実に履行するとも言われる鹿児島人のお国柄です。ただ、薩摩藩において寺院統合の動きは、天保年間から始まっていました。調所広郷(ずしょ・ひろさと)の財政改革の時代です。1616より多くの寺院があり、それを藩で維持するのが難しくなったため、ある程度整理していこうという動きがありました。その延長線上が、勝手方家老である桂久武の取り組みです。あくまで統合が前提の動きです。