ハートフル講話録 2月「大河の世界と薩摩の宗教史」(中期) 歴史上で寺院や僧侶が果たした役割

廃仏毀釈が起こる前、鹿児島には1616寺があったと伝わり、現在鹿児島県内にあるコンビニの数よりも多く寺院があったようです。それだけ寺院、僧侶の果たす役割が多かったのです。

僧侶が学ぶものに「五明(ごみょう)」があります。平安時代に確立しており、お寺で学ぶものが5つあるというものです。1つめが「声明(しょうみょう)」音韻や文法・文学です。法要の中で抑揚をつけて経典を読んだり、楽器で音楽を演奏したりします。2つめが「因明(いんみょう)」論理学です。いわゆる論理的な思考を学ぶものです。3つめが「内明(ないみょう)」仏教の経典について学びます。4つめが「医方明(いほうみょう)」医学や薬学を学びます。5つめが「工巧明(くぎょうみょう)」で、仏像の作り方や土木の技術などを学びます。このように、僧侶が学ぶことには文学的、芸術的な側面や論述的なものがあり、医学薬学、そして、技術系など多くのことを覚えなければなりませんでした。いわば寺院は総合大学のようなものだったのです。寺院で学んで、各地で布教(ふきょう)する。布教と合わせて医者としての技量や土木の技術を駆使することも求められました。

14世紀初め、鎌倉時代の終わりから室町時代のはじめに「渓嵐捨草集(けいらんしゅうようしゅう)」が編纂されました。延暦寺での学びを集めたものです。延暦寺は天台宗ですが、真言宗、禅宗や華厳宗や浄土宗についても学び、梵字、サンスクリット語など、いわゆる外国語も学びます。そしてここで学んだ僧侶たちは、寺院の内でも外でも様々な分野で活躍しました。

例えば僧侶は、ミュージシャン。声明、仏さまを讃えるために経典に節をつけて歌います。そして、アイドル。清少納言は「枕草子」の中に僧侶の容姿について記しています。朝廷に勤める若い女官たちにとって声明を唱えたり説法をする僧侶はアイドルだったようです。鎌倉時代の「元寇」の際には、幕府の外交ブレーンとして無学祖源(むがく・そげん)が活躍し、室町の明王朝との交易「日明貿易」では、正使と副使の役を禅僧が担いました。江戸時代でも薩摩と琉球の和平交渉が行われた際に、琉球からは円覚寺の菊隠宗意(きくいん・そうい)、薩摩からは志布志・大慈寺の龍雲宗珠、どちらも臨済宗の僧侶が外交の表舞台で活躍しました。奈良の大仏建立の尽力した行基(ぎょうき)は、寺院で土木技術を学び、全国各地を回って人々の生活がよくなるように橋や堤防造りなどの土木工事をしながら仏教を広めました。僧侶はまた、医者でもありました。禅宗の梶原性全(かじわら・しょうぜん)は「頓医抄(とんいしょう)」という本を著し、人間の病を6つに分類し、その治療方法について書いています。

外交官、ミュージシャン、アイドル、医者、技術者など様々な側面で活躍した僧侶ですが、民衆世界とどうやって関わっていたかというと、寺院は常に鎮護国家と五穀豊穣を祈り、民衆は寺院のために奉仕します。祈りと奉納のギブアンドテイクが寺院と民衆の間で成立していたのです。また、裁判でも仏さま神さまのご加護があるかないかで決裁されたり、「あみだくじ」も使われました。「あみだ」は阿弥陀如来のことです。仏さまのご加護をもって選ぶということを意味しているとも言われています。

宗教と戦争、ときの権力者は寺院を護ることが地域の平和、安定につながり鎮護国家にすると思っていました。鎌倉時代の元寇は暴風雨によって元が退いたといわれますが、暴風雨は当時神風のご加護と信じられ、神々同士が戦い、寺院は祈祷して神々を奮い立たせ、威力を増大させるとされました。いわば祈祷が鎮護国家、五穀豊穣、家庭のお祈りだけでなく戦闘行為としても信じられていたのです。