2020年5月法話『見ているよ 知っているよと仏さま』(後期)

浄土真宗では、手を合わせ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。

それは、仏さまへの感謝の心と、自分を顧みて、命の有難さや尊さを知らせていただくことだと私は感じています。

今、世界中が新型コロナウイルス流行の影響により、各地で様々な問題が起こっています。

2月末のことですが、仕事帰り歩いていると、すれ違う人の大半が大きな荷物を下げて行き交っています。

自宅に帰ってニュースを見ると、「トイレットペーパーの買い占め」が起きていたことを知りました。

そこから様々な品物が店頭から消え、4月に入り日本政府が緊急事態宣言を発表すると報道されてから更に拍車がかかりました。

こうした予想外の事態が起きた時など、確かでない情報に影響されることがありますが、そこでは、他人や社会への配慮が著しく欠ける場面や状況を目の当たりにします。

みんなが困っている時こそ、助け合い、気付きあい、声をかけあわなければならないと解っているはずなのにそうすることが出来ない。

当たり前のことが出来なくなるのが私たちの姿であることを改めて気付かされる方も多いのではないでしょうか。

以前、こんな記事を目にしました。

ふらりと立ち寄った、あるラーメン店。こだわりのスープが売り物とか。まだ若い店主の元気な声が響く。ラーメンを注文した客の携帯電話が鳴った。込み入った内容らしい。客は話しながら店の外へ。出来上がったラーメンが席に置かれた。客はなかなか戻ってこない

しばらくして席に着いた客がラーメンに手を伸ばそうとした。その時、店主はさっとラーメンの器を引いて、湯気の立つ作りたてに取り換えた。驚く客に「お客さんに、冷めたラーメンは食べさせられませんから」

「2杯分の料金を」との申し出を固辞した店主。そのTシャツの背中に書かれた文字に目が留まった。「一杯入魂」。野球の「一球入魂」のもじりだろうか。なるほど。この店のラーメンがうまい理由が分かった

仕事帰りに乗った、ある路線バス。停留所に止まるたび、運転手が車内アナウンスを繰り返す。「週末の金曜日です。1週間、お疲れさまでした」

バスを降りるお年寄りには「寒いですから気を付けて」「自転車にご注意ください」。あえて言えば「一停入魂」か。学生たちが「ありがとうございました」と笑顔で降りていった。外の風は冷たいが、車内は何だかポカポカと

ラーメン店主とバス運転手。仕事は違っても、心を込めて最良のサービスを提供しようというプロ意識には通じるものが。料金はいつもと同じなのに、すごく得をした気分にしてくれた。

何気ない振る舞いかもしれませんが、大切で心が温まる気持ちがそこには込められています。

私の命は、一人では成り立ちません。マスクやトイレットペーパー、薬や身の回りにある物を一つとっても、誰かの働きや自然の恵みがなければ成立することはありません。

当たり前のことだから見向きもしないのが私たちの日常です。

その当たり前の恵みを疎かにしてしまうと、自分のことばかりに目が行き、他の事が見えなくなってしまいます。見えなくなるとどうなるか、争いや諍いが起こってしまうことになります。

世界的な危機的状況だからこそ、一人一人が考えて行動しなければなりません。

ドイツのアンゲル・メルケル首相がコロナウイルス対応の最前列にいる医療関係者に感謝を述べた後、こう付け加えられたそうです。

「普段めったに感謝されることのない人々にも感謝の言葉を送らせてください。スーパーのレジ係や、商品棚を補充してくださる方々。彼らは現在、最も困難な仕事の一つを担ってくれています。仲間である市民のために、日々働いてくれて、私たちの生活を支えてくれてありがとうございます。」

物流が滞り、感染拡大や緊急事態宣言によりパニック状態で買い占めがおこっている中、スーパーで働く人々へ感謝の言葉を述べることが出来る人はどれだけいるでしょうか。

ともすると暴言を吐いたり、イライラをぶつけてはいないでしょうか。

南無阿弥陀仏の仏さまは、いつでも どこでも どんな時でも 私に寄り添ってくださる仏さまだと教えていただいたことがあります。

本当の心の支えとは、私の事情が変わったとしても、見放したり、捨てられたりするようなものではないはずです。

私のすべてを見抜かれたうえで、私にどこまでも寄り添ってくださる仏さまがいるからこそ、感謝の心が芽生えてきます。

「見ているよ 知っているよと 仏さま」

こんな時だからこそ、手を合わせ、自分の心と向き合う時間が必要ではないでしょうか。

いい時も、悪い時も、嬉しく楽しい時も、辛く悲しい時も、合わせた手の中に、その心に、仏さまはいつも一緒です。

感謝の心を忘れずに日暮しをさせていただきましょう。

合掌
南無阿弥陀仏