浄土真宗では、なぜ占いや日の吉凶などを気にしないのですか。

新聞や雑誌等をみていると、必ずといっていいほど占いのコーナーが設けられてあります。私が毎日みている新聞にも占いのコーナーがあり、「何月生まれの人の今日の運勢は」と詳細に書かれています。

普段は見ることもないのですが、たまに目に入ってついついみることもあります。そうすると良いことが書かれていたら嬉しくなり、悪いことが書かれているとやはりいい気分はしません。そんなことにふりまわされる自分の姿があるのです。

そんな時に、お念仏を申す日暮らしをさせていただいていると、ふとせっかく今日尊いのちをいただいて生かされているのに、こんなことに一喜一憂しているお粗末な自分がおったなあと、改めて気づかせていただくのです。

800年ほど前の親鸞聖人の時代にも占いや日の吉凶等に振り回される人々が多くいたようであります。

親鸞聖人は「悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」というご和讃を残されておられます。

「僧侶も民衆も、良い時・良い日を気にして、天の神や地の神をあがめながら、占いや祈りごとに余念がありません。なんと悲しいことでしょう」と言われるのです。

冒頭で書きましたが、新聞等に占いのコーナーがあるということは、それだけその占いをみたいという読者がいるからなのだと思います。だから新聞社も出版社もそのコーナーを設けているのだと思います。

実際、占いによって心が落ち着くという人がいるのであれば、それもまた仕方のないことなのかもしれません。しかしよくよく考えると、私たちが占いや日の吉凶等に頼ったりするというのは、私たちが実際の生活の中で様々な不安を抱えながら生きていることの裏返しともいえるのです。

しかし、親鸞聖人は、占いや日の吉凶等に頼っていく生き方を「かなしきかなや」といわれるのです。それは、占いや日の吉凶等に頼って生きていくことが、その人の主体性を失わせ、その人本来の生き方を見失わせることにもなるからなのです。

占いや日の吉凶等は人生を切り開くもののように思われますが、決してそうではありません。かえって頼り切ってしまい、その人の生き方そのものが、縛られていくのです。こうした占い等に熱心であることは、決して宗教的な生き方とはいえないのです。それは本来の自分という主体性を見失った偽りの生き方であるといえるのです。そのような人間のありようを親鸞聖人は「かなしきかなや」と嘆いているのです。

親鸞聖人はお念仏のみ教えを通してそうしたさまざまな束縛から解放され、そして天の神や地の神から解放された自由な道を歩まれたのでした。私たちもまたその教えを聞かせていただき、なにものにも束縛されない無碍(むげ)の一道を歩ませていただきたいものです。